終章

終章

久保兼子が勤めていた、老人ホームから出た輝美は、なぜか、まっすぐ自宅に帰る気にはなれなかった。考え事をしながら、とぼとぼと道路を歩いた。

施設長が、あんな言い方をするなんて、どういう事なんだろうか。施設長は、彼女のことを、本当に、そう、ごみとしか見ていなかったのだろうか。いくら仕事ができないとしても、あんな言い方はするだろうか?

そう考えながら、道路を歩いて、バスの停留所に来た。時刻表によると、バスが来るまで、あと、20分ほどあったから、とりあえず、椅子に座って待つか。と、輝美は待合席に座った。

それにしても、先ほどの施設長のことばは、本当に、辛いものがあった。

少なくとも、学校以外では、邪見に扱われることはないのではないかと思っていたのに。

あんな、ごみのように扱われるなんて、さすがにつらかっただろう。

施設長は、彼女の勤務ぶりを、本当に仕事ができない奴と表現していたから、それはたしかにそうであるんだろう。でも、其れなら誰かが教えてやるとか、そういうことをしてくれればいいのに。何んもしないで、放置していたのだろうか?どうしてそんなに無関心でいられるんだろう。学校では、少なくとも、こういうことはさせないようにしている。困っている人がいれば教えてやろうということは、学校ではさんざん教えてやっている。生徒たちはそれを何も隔たりなく実行している。まあ、たしかに受験生となれば、教えあうという事はあまりしなくなるけれど、それでも、勉強を友達同士で教えあうことはする。其れなのに、それなのに、、、?


不意に、目の前に缶コーヒーが差し出された。

「ほら、一杯やれ。」

言われてみてみると、そこにいたのは杉ちゃんだった。

「杉ちゃん、どうしたの?」

「へへん。ずっとそこに座っていたからよ。寒いし、おかしいんじゃないのか、とおもってさ。コーヒー買ってきたんだ。」

杉三は、輝美にコーヒーを渡した。

慌てて時計を見ると、もう、バスの来る時間はとっくに過ぎている。考えすぎて、バスが来たのを忘れていたらしい。しかたない、タクシーで帰るか。

「何、考えていたんだ?」

と、杉三が聞いた。

「いえ、あたしは大したこと考えていませんよ。ただ、人間社会は、学校を出ると、変わっちゃうんだな、と思って。」

「ああ、久保さんのお母さんのこと聞いたの?」

不意に杉三は、そんなことをいいだした。

輝美は答えられず、あたまを上にあげる。

「何かショッキングなこと聞いちゃったのね。すまんすまん。とりあえず、コーヒーを飲んで、ゆっくりしな。」

と、杉三は、にこやかに言う。

輝美は、杉三に貰ったコーヒーの缶を開けて、急いで中身をがぶ飲みした。暖かい、高級なコーヒーで呑むとほっとした。同時に、誰かに話したくなった。

「なんだかねエ。久保さんのお母さんの職場に行ってきたのよ。そこの施設長さんと話してきたんだけど、もう久保さんはごみ、みたいな言い方。いくらできの悪い人であったとしても、あんな言い方はすべきじゃないじゃないかなって、ほんと、辛くなったというか、憤っちゃった。」

「へへん。まあ、そういうもんよ。誰でも、自分の生活で精いっぱいで出来の悪い奴の事なんか見てやれる余裕なんてなくなるもん。」

杉三はカラカラと笑った。

「あら、杉ちゃんまでそういうこと言うの?学校ではそんな人には鳴ってもらいたくないのに。そうならないように、教育して行くのにね。」

輝美が聞くと、

「あたりまえやないけ。そうしないでどうするの?もうな、学校ってのは、あるいみ塀の中と同じようなもんなのよ。そこから一歩出たら、勉強のできない奴はできるやつが教えるなんてどこにある?もう、そんな奴は関係ないの。自分だけ、自分だけ、自分だけになるのさ。それで他人様のことなんて、一切必要なくなるのさ!」

と、杉三はにこやかに答える。

「でも、社会にでたって、助けあうことはやっぱり必要なんじゃないの?そういうときは必ずどこかで出てくるんじゃないの?社会に出て仕事をしていくにあたって。」

輝美は、面食らって聞くと、

「バーカ!学校の先生は本当に何も知らないんだねエ。それでよく子供に勉強教えられるな。そんなんだから、社会になじめない奴が出ること知らないか!助け合う何て誰がする!みんな自分のことだけしかしないよ!それよりも、自分ができるだけ安全に、そして確実に生活できる方法を求めるんだ。誰かと一緒になんて、もはや、誰もするもんか。そして、自分だけが必ず安全に生活できる様にするためには、時には悪事に走らなきゃならない時もあるんだよ!それは、もう当たり前のことで、どんな奴でも必ずやらなきゃいけない!そういうことを学校では一切教えないから、善良な子供らが可哀そうすぎてたまらんよ。」

と、杉三はでかい声で笑って答えた。

「だから、久保さんのお母さんは、仕事ができないで、ごみにされて当たり前。それは働くところを間違えたから。適応できなかったからだ。それをおそらく誰にも相談できないで、息子の久保君のせいにするしかなかったんだろう。今回の事件はそこだと思うぞ。それを助けようとする奴なんていなくて当り前さね。」

「じゃあ、杉ちゃん。久保さんのお母さんは、どうしたらよかったのかしらね。そのままできないままで仕事を続けるの?」

「へえ、そうだなあ。先ず、できないという事実に着目してさ。何とかできるようにすることが一番なんじゃないのか。それが一番の方法だろう。でも、人間ってのはおかしなところがあって、そのことにたどり着けない。なんで私がこんな目にとか、考えちゃって、変な風に誰かのせいにする。それを間違えると、とんでもない事件に直面するわけで。」

「そうねえ、、、。みんな学校の外へ出ると、そうなっちゃうのかあ。」

「まあ、そういうこっちゃ。学校の事なんて、どんなに素晴らしくても、無意味になるのが人間だ。そういうもんなんだよ!人間にとって、一番大事なことは、学力でも技術でもなんでもないの!順応することだよ!順応していく能力だ。それが一番大事なのに、学校はそれを持っていくような真似をする。だからダメなんだ。それをおしえないから。今回のような事件も起こるんじゃないの!」

輝美は、杉ちゃんにそういわれて、

「そうね。私も、もっと別の意味で成長して行けばよかったな。学校の先生なんて、本当に大したことじゃないわ。」

と、あらためて思い直した。

「学校なんてさあ、所詮、金魚鉢で金魚を飼っているようなもんだよなあ。ほら、野生の金魚は存在しないっていうけどさ、あんなのが野生化したら、どうなるかしれたもんじゃない。たちまちサメに一飲みにされちまうしかできないだろうよ。その金魚たちを金魚にさせないっていうのも、また教育だよね。」

杉ちゃんは、またからからと笑った。輝美は、そうなのねと思い直して、コーヒーの残りをがぶ飲みした。


「警視!久保兼子が供述を始めました!もしかしたら、もう潮時かと思ったのかもしれません!」

華岡がいつも通り出勤すると、部下が急いで駆け寄ってきた。

「待ってたのよ、待ってたのよ!」

急いで華岡は、取調室へ飛び込む。

「やっと、理由を話していただけましたか。それでは、ちょっとくわしく話してもらえないでしょうかね。」

「はい。」

久保兼子は、やっと華岡のほうを向いてくれて、こう話し始めた。

「夫と、生活感が合わなくて離婚して、とりあえず介護施設で働き始めたんですが、その仕事ぶりは散々でした。もともと、結婚してからは家庭に入るというのが、夫の実家の決まりでしたので、15年以上、働いていなかったんです。その間にだれかの介護を経験したというわけでも無いので、本当に、介護職は初めての仕事でした。ですから何がなんだかさっぱりわからなくて、皆さんのように仕事をてきぱきとつづけることも出来なくて。」

「はい。それで、誠一君をにくたらしいと思うようになったんですか?」

「ええ。気が付いたら、誠一も、高校生になっていました。まあ、手をかけて育ててましたから、誠一は、おとなしいし、ほかの同級生に比べると、気弱なところがありました。それに、学校の先生が、勉強は教えていたんですけど、誰のおかげで生活できてるとか、そういうことは一切言いませんでしたので、誠一が、学校生活を楽しんでいると、何だか憎たらしくてたまらなくなって、、、。」

「しかしですね。お母さんなんですから、そこは割り切って、今は誠一を何とかする時なのだと思うことはできなかったんですかね。それが、お母さんのもつ能力というべきではないでしょうか?」

華岡は、そう聞いてみた。確かに、親であれば、子どものためなら、自分はどうなってもいい、という感情が、一度や二度は出るはずだ。それは何時の時代でもそうである。

「いいえ、わきませんでした。私も、そうされたことはありませんでした。私はどちらかと言えば、父もいて、母もいますけど、二人とも働いていて、私は、放置されて育ちましたし。お金はあったから、ものはあって、遊ぶ道具は色々あるんですけど、それを一緒に共有することはなかったし。そういう分けですから、私、親が子供のためにどうのこうのとか、そういう瞬間を、余り見てこなかったんですよ。だから、誠一にも、憎しみしか出てこなかったのでは無いかと思います。」

「なるほど。確かに今は、平和すぎて、危険な目に合うという事もあまりないですからな。」

華岡は、ここまでくると、大きなため息をついた。何だか、刑事として非常によくあるパターンを聞かされるだけのような気がする。

でも、それだけ、彼女が持っている空虚感は大きいという事だろうか。

「それでは、誠一君に強いていた、虐待について教えてください。彼に対してどんな手を使っていたんですか?」

「はい。初めは、ほほを叩くとかその程度だったんです。それの程度であれば、しつけとして認められるんじゃないかって。成績が悪かったりすると、私が、一生懸命働いているのに、なぜ成績が悪いのかを叱りました。でも、やればやるうちに、私が強くなった気がしてしまったんです。いつも、職場で同じことをされているからでしょうか。同じ仕打ちを、子どもにすると、私ってすごいなと勘違いしてしまいました。初めは、本当にそれだけだったんですが。」

華岡は、どこで一線を越えてしまったのか、それを知りたかった。

「それをやっているうちに、誠一に、成績が悪かったら、食事を与えないようにしました。同級生から、誠一が元気がないと言われたこともありましたが、私は何も言いませんでした。やがて、同級生も家には近づかなくなりました。そのうち、介護施設での仕事も、ますます大変になってきて、余計に嫌がらせをされるようになって。だから、もう、ほかの職場に移ろうと思ったけど、誠一の学区外になってしまうので、ほかに行けそうな職場もありませんでした。それでは余計に誠一が憎くなって、成績がよくないことをきっかけに、すべての食事を抜いて、生活させるようにしたんです。そうして生活していると、しらないうちに誠一は、体力をなくしていって、ねたきりに近づいて行きました。そのほうが私には都合がよくて、誠一を放置して、しごとに行っていました。幸い、近所の人からも、声をかけられることは一切ありませんでした。」

つまり、放置していたという事である。

其れにしてもおかしい。なぜ、誠一君は食べ物を欲しがって声を挙げたり、暴れたりしなかったのだろうか。それに、もし腹が減ってどうしようもなかったら、誰かの家にいって、ご飯をくださいと、懇願することもしなかったのだろうか。

華岡は、そのあたりを聞いてみようと思ったが、久保兼子の供述からは、そのような事実はなく、誠一は、そのままの姿で、ずっと母に言われたとおりに監禁され続けていたという。

「そこはやっぱり、本人に聞いてみないとだめなのではないですか。」

部下の刑事が、泣いている久保兼子を見ながら、首をひねっている華岡に言った。

「本人、聞けるかな、、、。」

華岡は、うーんという顔をして、腕組をして考えている。その間に、取り調べの時間は終了し、兼子はまた留置所に戻された。

「よし、聞きに行くか。もう母親のほうは供述が取れたんだから、これから先は裁判にまかせることも必要だろう。」

考え終わった華岡は、でかい声でそういい、取調室の椅子から立ち上がって、いそいそと部屋を出て行ってしまった。警視、其れよりちゃんと、取り調べ終了の合図を出してくださいよ。と、部下の刑事はそう文句を言いながらも、華岡の指示にしたがうことにした。

「確か、久保誠一は池本クリニックにいるんだったよな?」

「はい。そうですが。本当に会いに行くんですか?」

「当り前よ。母親のほうは、法律で罰せられるだろう。もうあの少年に、母親を怖がる必要は無いって伝えに行くんだよ。だって、考えてもみろ。ビシビシひっぱたかれて、挙句の果てに食事を抜かれるとは、尋常なことじゃないよ。やっぱり其れは、怖かったんじゃないのかな。だから、もう解放してくれって、絶対心の底で叫んでいたはずだ。それを告げに行かなくちゃ。」

全く、本当にこういうところは人が良すぎるというか、優しすぎるというか、そんなことまで刑事がしなくていいのでは?何て思うのだが、華岡は必ずしなければならないと思っているらしい。華岡は部下の刑事に車を出させ、病院に向かわせた。

華岡たちが到着すると、そこにはすでに先客がいた。杉三と輝美だ。

「あれれ、華岡さんどうしたの?」

「ああ、もう母親の供述がとれたので、事件はもうすぐ解決しそうだ。なのでそれを被害者に伝えに来た。」

華岡がそういうと、杉三は、

「そうか。でも、それはいらないかもしれないよ。」

と、言った。

「なんだい杉ちゃん。事件は解決したほうがいいんだろ?それは、伝えたほうがいいだろ?」

華岡が反論すると、

「いいえ。華岡さん。そうやって、被害者加害者で区別できないのが、こういう事件なんではないかなと思います。」

輝美は静かに言った。

「いくらひどい人であっても、やっぱり母親は母親です。私たちは、今まで、彼に会ってきました。私が、久保君にいくら酷い人だと、言い聞かせても、話しかけても、天井を見つめるだけで、何も言わないんです。私は、何回も、もう、お母さんは、あなたを餓死寸前まで追い詰めた、悪い人なんだって、お伝えしたんですけれども、久保君は、だまったままです。それはきっと、どんなにひどい

人でも、母は母だと言っているのだと思います。」

「そうですか。でも、今度は警察官の俺もいます。俺たちは、もう安全になったと伝えることも必要でしょう。そしてもう一つ、大事なことですが、ああして監禁されて、なぜ素直に受け止めることができたのか、俺たちはそれも聞き留めなければいけません。あのひどい母親に食事も与えられないで、高校生くらいの子なら、隣近所に何か食べさせてくれと、お願いしてくるはずなのに、そういうことは一回もなかった。つまり、久保君は、母親に、折檻をされるがままであったという事になる。なぜ、素直にそう受け入れることができたのか、それをきかなければ、事件は解決しないと思います。もしかしたら、其れこそが、事件解決のカギなのかもしれない。」

「いや、もしかしたら、死なせてやった方が、事件解決になったかもしれないよ。」

不意に、杉三が、そういったので、皆一瞬黙ってしまう。

「杉ちゃん。それどういうこと?」

輝美が聞くと、

「たぶん、久保君は、お母さんが職場で困っていて、自分のせいで職場でいじめられていることも、あらかじめ知っていたんだと思う。それで、自ら犠牲になって、お母さんの虐待にも応じることにしたんじゃないかな。もちろん高校生という年代であれば、ある程度世のなかの世情だって知っているだろうしね。それによってお母さんが困っていることも知っているだろうし、お母さんが働いてくれるおかげで、生きていけることも知っているだろう。だからお母さんが、暴力をふるったとき、逆らえなかったというか、あえて逆らわなかった。平凡すぎる自分が、将来大きなことは出来そうなちからもないし。其れなら、今ここでお母さんのお願いに応えるべきだろう。そう思ったんだよ。」

と、杉三は答えるのであった。

「しかしね、杉ちゃん。杉ちゃんのいう事が本当であれば、そのお願いは、ねえお願い死んで、という事になるぞ。それはいくら何でも、いけないことでは無いのかな?」

と、華岡が言うと、杉三は、もう一回言った。

「いいや、どうかな。今の時代であれば十分あり得る話だぞ。それに、お母さんも久保君も、それ氏しか思いつかなかったし、思いつけなかったんだろう。なぜなら、周りがあまりにも無関心すぎてな。」

そうか。そうだったのか。輝美は、その言葉を聞いて、これを二度と忘れないようにしようと決めた。

それは、久保君にも、母の久保兼子にもいえることであったから。

「しかし、ひとつ疑問は残ります。なぜ、久保誠一は、発見された時、一人でカフェの前を歩いてきたんでしょうか。ほら、警視も知っているでしょう?久保誠一を発見してくれた、カフェのおかみさんが、言っていたじゃないですか。一人でカフェの前を歩いていたって。」

部下の刑事が、そう華岡にいった。華岡も、之にはウーンと考えこむ。たしかに、死のうしていたのなら、自ら逃げ出すことはないはず、、、。

「うーんそれはな。」

と、杉三は言った。

「たぶんきっと、人間は所詮、人間という動物だからさ。野生の本能でも働いたんじゃないの?」



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サスペンス篇2、金魚 増田朋美 @masubuchi4996

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