十一章 4


 家族のことを思うと、薄暗い家のなかを思いだす。

 窓の小さな昔ながらの日本家屋だから、じっさいに暗かった。しかし、それ以上に、そこにいるときの蒼嵐の心情が暗かった。


「ただいま」と、小学校から帰り、玄関をあけても、誰も出迎えてくれる人はいない。「おかえり」とも言ってくれない。


 二世帯住宅だから、祖父母は別棟にいるし、たとえ声が届いたとしても、蒼嵐に話しかけてくる人たちではない。


 父は平日、仕事で不在。

 一流会社のなかで着実に出世している。残業や接待も多く、父が家にいることは、めったになかった。午前零時をまわってからの帰宅がかさなり、顔さえ見ないことも、ままある。


 母は専業主婦だ。

 しかし、父が忙しいぶん、ヒマをもてあましていて、陶芸教室など、いくつかの趣味の習いごとをしている。曜日によっては夜まで帰ってこない。


「ただいま……」


 今日は水曜日だから、お母さんはフラワーアレンジメントの教室の日だ。


 そう考えながら、玄関の引き戸をあけた蒼嵐は、たたきに置かれた赤いハイヒールに気づいた。母のお出かけ用の靴だ。


(今日はもう帰ってるんだ。お母さん)


 蒼嵐の心ははずんだ。


 今日は母に渡すものがある。来月にある参観日の案内のプリントだ。小学二年生の一学期。去年は弟の大輝が保育所通いで、母は忙しいから行けないと言った。


 でも、今年は大輝も同じ小学校に入学したし、一年生と二年生の教室は近いから、きっと来てくれるはず……。


 キッチンのドアをあけると、母は背中をむけてガスコンロの前に立っていた。甘い匂いがただよっている。ホットケーキを焼いているらしかった。


 蒼嵐は勇気を出して声をかける。

「あの、お母さん」


 ヤカンが火にかかっていて、ガタガタとフタが鳴っている。

 そのせいか、母は蒼嵐に気づかない。


 蒼嵐はもう一度、今度はもう少し大きな声を出した。

「お、お母さん!」


 母の動きが一瞬止まり、ようやく、チラリと蒼嵐のほうを見る。無言の母に、蒼嵐はあわててランドセルをおろした。プリントを出そうとして、うっかり、なかのものを床に散乱させてしまった。母が顔をしかめる。


「あ、あ、ごめんなさい。あのね。これがね——」


 蒼嵐は急いでプリントを探そうとするが、なかなか見つからない。


 母はガスの火を止めると、お皿にホットケーキを載せた。ヤカンの湯をマグカップにそそぐ。ココアの香りがした。


「大ちゃん。ホットケーキ焼けたわよ」


 母はホットケーキを持って、キッチンを出ていく。蒼嵐のほうは見向きもせずに。


 ようやく見つけたプリントを、蒼嵐はテーブルの上に置いた。

 あとで見たとき、プリントは欠席に丸がつけてあった……。


 いつものことだ。いつか期待しなくなっていた。

 同じ両親の息子のはずなのに、大輝には甘く、蒼嵐にはそっけない。なぜなのか、ずっと不思議だったのだが、そのわけが今になってわかった。


 生贄だからだ。

 どうせ、いつかは殺さなければならない子ども。

 優しくすれば、そのぶん、殺すのがつらくなる。


 でも、それにしたって、ほんとに、そんなことができるものなのだろうか?


 だって、蒼嵐だって、父と母の息子だ。血をわけた子どものことを、冷たくしようと思ってできるものなのだろうか?


 できないからこそ、よその親は、自分の子どもをいざというとき、殺すことができなかった。薔子や、安平や、崇志の親のように。


 愛情を持たないようにしても、十数年ものあいだ毎日、顔を見ていれば、愛情を持ってしまう。それが人間ってものじゃないのだろうか?


 たとえ、どんなに邪険にされても、父や母に愛されたいと、蒼嵐が願っていたように。


 両親のほんとの気持ちをたしかめたい。

 たしかめて、二人が蒼嵐のことなど、まったくなんとも思っていないことがわかれば、そのときは往人の言うとおりにしてもいい。


 だが、もしも、父や母が本心では蒼嵐のことを愛してくれていたのなら、話しあえばいいのではないかと思う。


 僕はもうこの家には帰ってこないから、捜索願いは出さないでくれと頼めばいいのでは?

 両親だって納得してくれるはずだ。


 そんなことを考えているうちに、日が傾いてきた。

 日中は人目があるので、暗くなるのを保健室のなかで待った。

 スマホの充電や、食べ物の補給や、できるかぎりの支度をして、外へ出た。


「おれのうちから行こう。うちは、おまえんとこと違って、じいさんと、ばあさんがいないからな。今の時間なら家には姉貴と母さんしかいないはずだ。二人を殺しといて、親父が帰ってきたところを殺る」


 往人は迷うようすがない。

 黄昏時の薄闇のなかを、自宅にむかって走りだす。


 日中は遠くの道路に自動車や人影が見えたが、日没後の今、街路に人影はない。みんな、悪霊を恐れているのだ。


 この町は、昼と夜で、明確に支配者が逆転する。昼は一般市民。夜は悪霊が支配する。


 町の人が思っている悪霊とは、蒼嵐と往人だ。

 もう二人しか生贄は残っていないのだから。


(二人しか……おれと、往人と二人……)


 その事実を考えると、胸の奥がざわつく。

 紙ヤスリのようにザラザラの舌で、敏感で傷つきやすいハラワタをなめられているような、不安な不快感がある。


 やがて、往人の家の前についた。


「そらは、ここで待ってればいいよ。どうせ、見たくないだろ?」

「うん」


 往人の家族のことは、蒼嵐も全員、知っている。

 近所だから通りすがりに会えば、あいさつもしたし、お泊まりに行ったときには、往人の母の料理を食べた。

 たしかに、蒼嵐の家族と同じほど愛想は悪かったが、自分の家族もそうだから、とくにおかしいとは思わなかった。


 往人の家族が往人の手で殺されるところを見たくはない。

 往人の実家の高い塀が見える児童公園の植えこみのかげにしゃがみこんで、蒼嵐は往人を見送った。


 さほど大きな物音はしなかった。一、二度、物の倒れるような音と、短い悲鳴が聞こえた。


 しばらくして、往人が出てきた。


「今日はもう親父、帰ってたよ。風呂入ってたから、水音でおれが帰ってきたことに気づかなかったみたいだ。助かった」


 ウソでないことはわかった。

 往人の衣服には、まだ生々しくぬれた新しい返り血が、ベッタリとついていたから。


「行こう。そらのうち」


 往人が蒼嵐の手をひっぱる。

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