九章 2
大丈夫ではないのかもしれない。
自分でも何を言っているのかわからないが、やるせない感情がこみあげてくる。
「たぶん、この子のせいだ。この子の感情が流れこんでくるんだよ。この子はこの世に最後のたった一人の種族なんだ。仲間は全員、殺された。おれたち、人間に」
「だからって、人間をみんな殺そうとしてるのか? おれたちがその犠牲にならなきゃいけない理由なんてないだろ?」
「ムダだよ。この子じゃないんだ。異空様は、この子じゃない。この子はただ、異空様をこの世に呼びだしただけ。強い絶望と虚無と復讐への熱望の力で」
「じゃあ、いったい、異空様って、なんなんだ?」
「それは……」
返答につまって、蒼嵐はだまりこんだ。
二人が言い争うあいだ、薔子は沈黙を守っていた。
薔子のようすがおかしいことに、ようやく、蒼嵐は気づいた。
インフルエンザにでもかかったようにブルブルふるえながら、二冊の本をデイパックに入れている。
表情がこわばって、人形のようだ。
「薔子ちゃん? どうしたの?」
薔子は蒼嵐をかえりみた。
そのしぐさが、いやにトロくて、何かがおかしい。
まるで大きな力に抗うように、のろのろと口をひらく。
「これ……持っててくれる? 大切な……ものだから……」
「いいけど。顔色悪いよ?」
蒼嵐は言われたとおり、薔子のデイパックを背負った。
薔子はそれを見届けると安心したようだ。
「ここから、遠ざかって……遠くへ逃げて……」
「え? でも、薔子ちゃんは?」
「わたしは……ここに、残るから……」
「薔子ちゃん?」
薔子が変だ。
ささやく声は歌うように妙な抑揚があり、うわずって裏返っている。目の焦点があってない。
蒼嵐は往人の顔を見た。
往人も見返して首をふる。
「おれから言わせれば、おまえら、どっちも変だよ」
まあ、そうかもしれないが、蒼嵐は自分がふつうでないとは思っていない。でも、薔子はあきらかに、ふつうじゃない。
「薔子ちゃん。きっと、ここにいるからだ。おれたち生贄がここにいると、よくない影響を受けるんだよ」
蒼嵐は薔子の手をにぎろうとした。
思いがけなく強い力で、薔子がふりはらう。
薔子はグッと歯をむきだして、薄気味悪い笑みを刻む。笑いながら、両眼からは涙があふれだしてきた。
「……もう、遅いみたい……わたし、あの子と似てるから……取り憑きやすかった……の、かな?」
奇妙な泣き笑いの表情で、薔子は叫んだ。ひっくりかえったような正気を疑う声で。
「逃げてエエエエエエーッ!」
往人が蒼嵐の手をとって走りだす。
しかし、そのときにはもう遅かったのだ。
少し走りだしたとき、蒼嵐は往人の手をふりきって立ちどまった。ふりかえると、薔子はハサミをにぎっていた。薔子の足元に落ちた懐中電灯が、そのようすを照らしている。
「そら、逃げるぞ!」
往人は蒼嵐の手をつかみ、ひっぱる。
だが、蒼嵐はその場から動くことができなかった。
薔子が何をするつもりなのか目が離せない。
あのハサミ、蒼嵐たちを襲うためのものなのか?
いや、むしろ、あの切っ先は、薔子自身にむいている気がする。
「薔子ちゃん……何する……」
最後までたずねることはできなかった。
薔子はあの気持ち悪い笑みを浮かべながら、ハサミを自分の腹にあてる。そして、チョキチョキと音を立てて、そのまま体のまんなかを切りひらいていった。
服がやぶれ、その下のなめらかな白い肌がのぞく。
皮膚の下には、うっすらとついた白い脂肪や赤い筋肉の断面が見えていた。
その肌の厚みをものともせず、ビニールでも裂いていくように、カンタンに薔子は肉を切断していく。
うわあああッと叫んで、蒼嵐は薔子にかけよろうとした。
しかし、往人が必死でしがみついてくる。
「ダメだ! そら、行くな。アイツはもう、薔子じゃないよ」
そんなことを言われたって、このままじゃ薔子が死んでしまう。
——それでね。わたし、そのあと、死んでしまうと思うの。
わかってはいたことだが、それがこんな異常な状態で起こるなんて想像してもいなかった。
チョキチョキ。チョキチョキチョキ——
薔子の服の前面は真紅に染まっていた。
体の中心に赤い線が描かれて、そこから大量の血が流れおちる。
自分の体を切り裂きながら、薔子は笑い続けていた。
やがて、薔子は喉もとまで体を裂くと、ハサミをなげすてた。
両手をかけて、自分の裂けめを大きくひらいていく。
黒い空間が見えた。内臓や肉のピンク色がのぞく。腸はおさまりきらず、はみだしてきた。
「薔子ちゃん! 薔子ちゃんッ!」
——と、その裂けめから、何かが現れた。
薔子の体内から、裂けめを扉がわりにして、何かが出てこようとする。
気の狂いそうな光景だ。
薔子の内臓をかきわけて、腕のようなものがとびだしてくる。その手は半透明で血管が青く透けていた。骨はない。肉のかわりに十センチくらいの芋虫のようなものが群れになって
それが刻一刻とハッキリとした形をとりながら、頭を、肩を、薔子のハラワタから、つきだしてくる。
悪霊だ。
それはまさに悪夢のなかにしか存在しない
ぎこちない動作で、薔子のなかから這いだしてくる。
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