一章 4


 気まずくなって、だまりこんでいるところに、さっきの女の人が帰ってきた。お盆にマグカップとトーストがのっている。


「コーヒーでよかった? あったまると思うから、それ飲んで」

「わあっ! 春木さん。ありがとうございます!」


 拓也は春木さんが盆をコタツの上に置く前に手を出して、トーストにかぶりついた。


 蒼嵐は初対面の人なので、ちょっと遠慮したが、あたたかな湯気をあげるコーヒーの香りと、じんわり溶けたバターのビジュアルには抵抗できなかった。


「ありがとうございます!」

 同じく手を伸ばし、むさぼり食う。


 春木さんは目を細めて、そのようすをながめていた。

「たりなかったら言ってね。目玉焼きくらいなら作るよ。ご飯は炊かないといけないから、今ムリなの。食いあわせ変だけど、味噌汁は残ってたかな」


 寒さのなか走りとおしてきたからだろうか。

 空腹だと思っていなかったのに、一口、トーストをかじると、あっというまに食べきってしまった。まだまだ、たりない。

 このさい食いあわせなんて、どうでもいい。


「よろしくお願いします」

「ちょっと待っててね」


 春木さんは再度、ふすまをあけて居間を出ていく。


 そのあいだにコーヒーを飲みほした。熱い飲み物が食道を通っていくとき、体の奥まで満ちたりた。


「いい人だなぁ。春木さんって」


 蒼嵐が言うと、拓也もうなずいた。


 しかし、そのあと五分もたたないうちに、なんだか異様に眠くなってきた。ベッドのなかで限界までスマホいじって、寝落ち直前のときみたいに、まぶたをあけていようと、どんなに努力しても自然におりてくる。視界がぼやけてきた。


(あれ……? なんだろう? 疲れてた、か……ら?)


 睡魔のなかにグズグズに落ちこむ瞬間、ろうかの外から、ふすまがあいた。


「ごめんね。でも、死にそこねるのも、みじめなもんなのよ」


(春木……さん……?)


 蒼嵐の意識は忘我の深淵にくずれた。



 *



 夢……?

 夢を見ていた。


 真っ暗な闇だ。

 どこか遠いところから、水滴のしたたる音が聞こえる。

 ほのかに空気の流れがあった。


(ここ、どこだろう?)


 蒼嵐はあたりを見まわすが、とにかく暗い。自分の目があいているかどうかもわからない。でも、何度かまたたきしたとき、何も見えなかったから、やはり周囲が暗いのだと理解する。


 せまいのか広いのかも知れない空間だ。

 とりあえず両手を伸ばして、さぐってみる。

 何もつかむものがない。

 けっこう広い場所なのかもしれない。


 しかし、この暗さは夜なのだろうか?

 いや、地下かもしれないと思った。


 なんとなく直感だが、人工的な建造物のなかではないような気がした。足でふむ地面の感じがデコボコしている。石か岩の上のようだ。


 それに、あの水音……。

 洞くつのなかではないかと思った。


 これは、夢?

 夢だよね?

 だから、こんな変なとこにいるんだよね?


 それにしても奇妙な夢だ。夢なのに触覚がある。

 空気の少し冷たい感じや、あまりの静けさに自分の息づかいがハッキリと聞こえる感覚が、夢にしてはリアルすぎる。


 一歩、ふみだしてみる。

 やはり、固い岩のようなものをふんでいる。

 よこに手を伸ばすと、岩壁にふれた。コンクリートにしては起伏がある。自然のものなのか、人工的なトンネルのようなものかはわからないが、洞くつ状の場所にいるのだと確信した。


(なんで、おれ、こんな夢見てるんだろう?)


 真っ暗だが、障害物がないので、壁に手をあてていれば、わりにラクに歩ける。


 しばらく進んだあと、前方に薄明かりを見つけた。

 青白く光っている。

 行ってみると、光苔のようだった。

 暗い岩肌がところどころ青く発光している。


 わりとキレイだな、なんて考えていた蒼嵐は、ふいに、それに気づいてギョッとした。誰かいる。自分以外の息づかいが背後から聞こえてきた。


 ハアハア。ハアハアハア……。


 試しに息を止めた。それでも、背中からの呼吸音は聞こえる。

 まちがいない。誰かいる。


 ハア、ハア、ハア……。


 急に生ぐさいような匂いがした。

 ズリッ、ズリッと、何かをひきずるような音がすぐ近くでする。


 何かいる。それも、そうとう大きい。


 蒼嵐は思いきって、ゆっくりとふりかえる——


「見てはダメ!」


 とつぜん、誰かの声がして、蒼嵐の意識は覚醒した。

 目の高さに畳がある。

 そしてスカートをはいた女の足が見えた。


「あら、やだ。目がさめちゃったの? 寝てるほうが、あなたのためだったのに。睡眠薬、少なかったかな?」


 春木さんだ。

 視線をあげていくと、その顔は笑っていた。だが、その笑みは、電球の明かりが逆光になって無気味だ。


 そして、手には包丁をにぎっていた。

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