二章

二章 1



 さっきまで、あんなに親切だったのに、今、その人は包丁をにぎりしめて、こっちを見おろしている。


 飲み物に睡眠薬を入れていたようだ。

 優しくしてくれたのは、最初から、このためだった……。


「な、なんで? 春木さん……」


 蒼嵐は起きあがろうとして、自分の体が動かないことを知った。手足が縛られている。両手はうしろ手になっていて見えないが、足は結束バンドで結ばれているようだ。


 目玉をギョロギョロ動かすと、自分のそばに倒れている拓也が見えた。拓也は目をとじて、まだ気を失っている。


「やめてよ。なんで、おれたちに、こんなことするんだよ?」

「あなたたち、何も知らないのね。そうよね。わたしも知らなかった。十五年前は」


 春木は暗い目で蒼嵐をながめる。


「あなたたちは、どうせ殺されるの。だって、生贄なんだから」

「イケ……ニエ……?」

「正確に言うと、生贄だった、って言うほうがあってるかな。もうすぐ役目が終わるのよ。そうしたら、あなたたちは悪霊になる。その前に殺さなくちゃ」

「何言ってんだか、ぜんぜん、わからないよ!」

「大きな声を出さないで。外には、あなたたちを探してる人が大勢いるんだから」


 拓也や薔子の親のことか。

 彼らに見つかって猟銃で撃ち殺されるのもイヤだが、包丁で刺されて死ぬのもイヤだ。


 蒼嵐は必死に起きあがろうと試みた。だが、両手をうしろにされているせいで、ころがることも、ままならない。


「あなたたちは異空様に捧げられたの。人じゃないのよ」


 そう言って、春木は包丁をふりかざした。


 蒼嵐は夢中で寝返りを打った。回転の下側になった肩が痛んだが、ものすごい勢いでふりおろされる刃の輝きの前では、そんなものは問題じゃなかった。


 ころがった蒼嵐の足がぐうぜん、春木のむこうずねをけった。春木は「あッ」と声をあげて倒れる。


 だが、倒れたところには、拓也がいた。包丁の切っ先が、拓也の脇腹に刺さる。拓也はうっすらと顔をしかめたが、意識はもどらない。


「拓也くん!」


 蒼嵐が呼びかけても、いっこうに目をさまさない。


 春木は拓也の腹に刺さった包丁をぬいた。自分の手のなかの赤くぬれた刃物と、拓也を見くらべる。

 そして——


 ふたたび大きく包丁をふりかぶり、勢いよくおろした。

 血にぬれた刃が深々と拓也の胸をつらぬいた。

 拓也は目をあけ、その口から「うぎゃアアアーッ!」と叫び声があがる。


「やめてよ! 春木さん!」


 春木はもう聞いていない。

 何度も、何度も、くりかえし拓也の胸を刺す。

 拓也の体から大量の血があふれ、けいれんを始めた。


 殺されかけていた蒼嵐を助けてくれた拓也。

 まさか、こんなにあっけなく死んでしまうなんて……。


 悲しみと恐怖で涙が止まらない。


 だが、それだけでは終わらなかった。


 拓也のけいれんが止まってもなお、その胸に刃をつきたてていた春木が、笑い声をあげ、何かをつかんだ。


 胸を刺し続けていたのは、それをとりだすためだったようだ。動かなくなった拓也の胸を切りひらき、そこから、心臓を——


 蒼嵐は思いだしていた。

 以前、公園で往人から聞いた殺人事件の被害者は、両手と心臓を持ち去られていたということを。


(まさか……春木さんが犯人……?)


 春木は包丁をなげすて、両手で拓也の心臓を捧げもつと、いきなり、それに噛みついた。血の味をたしかめるように舌でなめ、まだビクビクとうごめくそれを、生のままかじっている。


 目の前で同級生が殺され、食われている。

 春木の顔はまるで猛獣だ。鼻から下が全部、赤い。

 蒼嵐は気が遠くなった。


 このまま、おれも、コイツに食われるのかな?


 そう思ったときだ。どこかで音がした。呼び鈴の音だ。ピンポン、ピンポンとうるさいほど鳴る。


 春木は拓也の心臓をあらかた食っていた。

 満足したのか、いそいそと音のするほうへ歩いていった。


 蒼嵐は吐き気がしたが、このまま泣いていたら、ほんとに自分も殺される。


 ふと見ると、顔のよこに、なげすてられた包丁がころがっていた。蒼嵐はうしろ手のまま包丁をつかみ、足首を縛る結束バンドのスキマにさしこんだ。ノコギリのように刃を上下させていると、やがてバンドが切れた。思っていたより簡単だった。


 足が自由になると、縛られた両手の輪を下から足を通してくぐる形で、手を前に持ってきた。ほかに取り柄はないが、体だけはけっこう、やわらかい。包丁を持ちかえて、両手の束縛も断ち切る。


(逃げないと。逃げないと)


 拓也の死体を見おろし、蒼嵐は一瞬、手をあわせた。


(ごめんよ。拓也くん。おれ、君を助けられなかった)


 なんて無力で弱いんだろうか。

 でも、感傷にひたっている場合じゃない。


 蒼嵐は包丁をにぎりしめて立ちあがった。

 話し声が離れたところから聞こえる。たぶん、そっちが玄関だろう。逃げるなら今のうちだ。


 ろうかへ出る前に、タンスの引き出しをあけてみた。女物の服が入っている。このさい贅沢は言っていられない。蒼嵐は靴下とセーターを見つけて、それを身につけると、縁側から庭へとびおりた。


 走りだそうとすると、とうとつに玄関のほうで叫び声があがった。


「うわぁッ、なんだ、こいつ!」とか「悪霊だ!」——そんな言葉が聞きとれた。


 気になったが、見つかるわけにはいかない。

 蒼嵐は雪のふる街路へかけだした。

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