一章 2



 だが、そのときだ。

 外から何かがとびこんできた。

 巡査が「わあッ」と悲鳴をあげ、顔を押さえる。

 見ると、床に野球のボールがころがっている。


「早く! 逃げるんだ!」


 蒼嵐の手をひっぱったのは、野球部の藤原拓也だった。クラスは違うが同じ学年だ。往人が仲がいいので、蒼嵐もたまに話したことがある。


 拓也に手をとられて、蒼嵐は交番をとびだした。


「こっち。こっちだ——」


 拓也は神社の林のなかへ逃げこむ。神社のまわりは、うっそうと木が茂り、暗闇のなかでは、まず人目につくことはない。


 しばらくして交番から巡査が走りだしてきた。が、完全に蒼嵐たちを見失っている。


「……ありがとう」

「うん」


 と言ったきり、おたがい言葉が続かない。

 よく見ると、拓也もスウェットの上下に靴下だ。

 スポーツ刈りだから髪は短いが、あわてて着の身着のまま逃げだしてきたような風体である。


「……藤原も?」

「うん。蓮池もか?」

「寝てたら急に、お父さんが斧を持ってきて……」

「うちは猟銃だよ。なんとか逃げたけど」


 同じ学年の生徒が、これで三人も自分の親に殺されそうになった——ということか。若奈はじっさいに殺されてしまっている。


「どうなってんの? コレ」

「知らないよ」

「だよね」


 これから、どうしたらいいのだろうか?


 警察も味方じゃない。

 家に戻れば殺される。

 どこか遠い町まで逃げたとしても、どうやって生きていけばいいのかわからない。


 途方にくれていたとき、蒼嵐は思った。


「往人なら……往人なら、何かいいこと考えてくれるかもしれない」


 往人は成績がいいだけじゃなく機転がきく。

 これまでも、ずっと兄のように頼ってきた。

 きっと今度も往人なら助けになってくれる。


 ただ、問題が一つあるとしたら、往人の家は、蒼嵐の自宅の近所ということだ。父に見つかってしまうかもしれない。


 拓也もうなずいた。

「そうだな。往人なら」

「おれのうち、往人んちの近くなんだ。お父さんが斧持ってウロつきまわってるかも」


 拓也は下唇をひっぱりながら、ちょっとのあいだ考えこむ。


「蓮池、スマホ持ってる?」

「置いてきた。急だったし、持ってでれなかったよ」

「おれも。誰かに借りれないかなぁ」


 蒼嵐は思いだした。

「柊木さんの家が、このへんじゃなかったかな?」


 気になる女の子の実家の住所だ。

 薔子がクラスの子と話していたことを、なんとなくおぼえていた。


「柊木んちなら、うちのとなりの町内だ」と、拓也が言った。

「アイツ、このごろ、ようすが変だったんだよな。風邪ぎみだって、あんま外にも出てなかったみたいだし」


「藤原って、柊木と仲いいの?」

「保育所からいっしょだし。近所だし」


 こんなときなのに、ちょっとヤキモチを妬いてしまう。


 拓也がさきに立って歩きだし、蒼嵐はそのあとを追った。


 夜中に女の子のうちをたずねていって、変に思われないだろうかと考えてから、蒼嵐は自分がおかしくなった。

 変にも何も、今夜は変なことだらけだ。ハッキリ異常だ。


 もしかしたら、これは蒼嵐や拓也の家だけのことじゃないのかもしれない。巡査が襲ってきたのは、そういうことではないだろうか?


 神社を離れ、住宅街のなかへ入っていく。


 黒縄手町が村だったころは、もっと栄えていたらしい。

 その昔は石炭の炭鉱があり、一時期ではあるが、金鉱も掘られていたという話だ。


 それだけではない。

 ほんの小さな山間の村に、大昔は銀だの石油だの、ウソみたいに資源が眠っていたのだと、以前、祖父から話を聞いた。

 現に今でも川で翡翠やオパールがとれることがある。今ではまれだが、かつて、その原石で一代を成した男がいた。


 だから、旧黒縄手村地区には、ビックリするような大きなお屋敷がけっこうある。


 山手の神社の近辺には、そんな大きな屋敷の門構えが続いていて、夜には無気味なこと、このうえなかった。


「ここだよ。柊木んち」と、拓也が指さしたのは、なかでも、かなり年季の入った和風の豪邸だった。


「うわ。大きい。どうやって呼びだすの? 夜中だし、呼び鈴はマズイんじゃない?」


 いや、親に殺されそうになったのだ。助けを求めるのは不思議じゃない。


 それでも、マズイと感じたのは、さっきの交番のことがあるからだ。ここでも、とつぜん襲われたら——そう思うと、どうしても警戒してしまう。


「こっち。あの窓が薔子の部屋」


 幼なじみの拓也は間取りもよく知っていた。そして、ころがった小石をひろうと、窓ガラスにむかってなげた。コツンと、うまく命中する。


 だが、次の瞬間、蒼嵐の不安が現実になった。

 窓が勢いよくあけられ、そこから顔をのぞかせたのは、薔子ではなかった。大人の男だ。手に猟銃を持っている。


「薔子かッ?」


 男は手にした猟銃をかまえ、こっちにむかって狙いを定める。

 拓也が走りだしたので、蒼嵐も追った。


「拓也くんか! 待ちなさい!——おい、シンちゃん、拓也だぞ」

「わかった!」


 男の声が複数、聞こえてきた。

 会話から言って、薔子の父と拓也の父のようだ。


 やっぱり、そうだった。

 薔子の父も“あっちがわ”だった。


「待て! 拓也!」

「もう一人いるぞ。薔子か?」

「いや、男みたいだ」

「くそ。どいつもこいつも」

「しょうがないさ。わが子なんだから。誰だって、ためらうだろ」


 そんな話し声が、しつこく追ってくる。

 ふだんから野球部で鍛えている拓也と違い、蒼嵐は足がもつれた。拓也ほど速く走れない。


「ま……待ってよ。拓也くん」


 呼びかけるが、拓也はふりむきもせず走っていく。

 それはそうだ。誰だって、殺されたくはない。泣きながらでも走る。


 もうダメだ。ずっと走りとおして、足が動かない。体も冷えきってるし。おれはここで死ぬんだ。わけのわからないまま大人たちに殺されて……。


 そう考えたときだ。


 とつぜん、横合いから誰かに手をつかまれた。

「こっち」


 見れば、塀の途中に門があり、そこがわずかにあいている。

 スキマから女の手が出て、蒼嵐の手首をにぎっていた。

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