八章
八章 1
月光がよこからさすせいか、顔の反面に陰影が濃い。
薄笑いを浮かべたその顔は、蒼嵐も知っている。
あの男だ。
今朝がた、美菜子が崇志と呼んでいた。
背が高く、コートを着た上からでも、とてもキレイな体つきをしているのがわかる。むだのない筋肉が胸板を盛りあげ、二の腕もたくましい。あの腕で首をつかまれたら、蒼嵐なんて、ものの一瞬で絞め殺されてしまう。
マズイ相手だ。逃げなきゃと、顔を見た瞬間に思った。
「往人。薔子ちゃん」
二人に逃げようと、蒼嵐が口をひらいたときだ。
とつぜん、男が走りだした。こっちにむかって突進してくる。
すごい速さだ。一瞬のふみこみで、四、五メートルの間合いを、いっきにつめられた。
美菜子は素手で若奈の喉をつきとおした。
替え子とのシンクロによって得られる能力には個人差があるようだが、美菜子やこの男は身体能力の強化を得たのだろう。
崇志の手刀が目の前に迫ってくる。
ああ、このまま、ここで死ぬんだなと、蒼嵐はひとごとのように考えていた。あのとがった爪が、まっすぐ自分の左胸にとびこんでくるのだろうと。
そのとき、よこから衝撃を受けた。
トン、と軽い力に押され、蒼嵐は倒れる。
崇志の腕に往人がしがみついていた。
「逃げろ! そら」
蒼嵐は呆然としてしまい、現状についていけない。
「バカ! 早く行けよ!」
再三、言われ、ようやく、あたふたと立ちあがる。
だが、どう見ても力の差は歴然だ。
そもそも筋肉量が違いすぎる。
相手は大人の男だ。それも、超人的な力を得た大人だ。
見ているうちにも、往人は軽々と、はらい投げにされる。地面にたたきつけられたところを上から押さえこまれた。
崇志が手刀をふりあげる。
ターゲットを往人に変更したのだ。彼は生贄の心臓を一つでも多く手に入れようとしている。誰がさきでも順番は関係ない。
往人が殺される——!
思わずかけよろうとする蒼嵐の手を、薔子がつかむ。
反射的に蒼嵐は薔子の手をふりはらった。
もちろん、助けに行ったからって、蒼嵐に何かができるわけじゃないことはわかっていた。ただ殺されるのが二人に増えるだけだと。
それでも、往人を見殺しにはできなかった。
「やめてよ!」
今度は蒼嵐が崇志の腕にしがみつく。
崇志は
が、無表情にふりおろそうとする腕の力はゆるまない。むしろ、強くなった。
ものすごい力だ。蒼嵐が両腕に全身の重さをかけて止めようとしても、みるみるその腕がおりていく。往人の心臓にむかって……。
もうダメだ。手に力が入らない。
おれも往人も殺されるんだな。せめて、薔子ちゃんだけでも逃げてくれたらいい——
そのとき、足音がした。
ザザザザザ——と、草をふみしめる音が人間とは思えない速さで近づいてくる。
「——やめて! 崇志!」
樹木のあいだから、美菜子が現れた。
「お願い。その子たちだけは見逃してあげて」
崇志は一瞬、迷ったようだ。腕の力がわずかに弱まる。
しかし、すぐにまた力がこもった。前につきだしていた力の方向をうしろにむけて。つまり、蒼嵐のひきとめようとしていた方向に。
蒼嵐は勢いあまって、かんたんにふりはらわれた。
尻もちをついたすきに、崇志の手刀が今度こそ、往人の胸に——
「往人ォ——!」
瞬殺だ。
見ていられなくて、蒼嵐はその瞬間、目をとじた。
一瞬、二瞬……だが、なぜだろう?
数秒がすぎても、悲鳴が聞こえない。
恐る恐る、蒼嵐は目をあけた。
往人を押さえる崇志の後方になげとばされた蒼嵐には、その光景が真正面に見えた。
信じられないことが起きていた。
崇志の腕を、美菜子が止めている。
自分の体を盾にして。
崇志の腕を胸に飲んだまま、美菜子は微笑していた。
「崇志。食べるんなら、わたしの心臓にしてよ」
「美菜子……」
「お願い……この子たちを、守ってあげて……」
「美菜子!」
美菜子の口から、ひとすじの血が流れおちる。
このとき、蒼嵐の目の前に、とつぜん、ある情景が浮かんだ。
桜の花びらが舞っている。
中学校のグラウンドだ。
紺色のセーラー服を着た少女の美菜子が、ほのかに頬を染めてうつむいていた。長いまつげが、ふとあがり、うるんだ瞳と目があう。
美菜子の視線のさきには崇志がいた。崇志も黒い学ランだ。
二人はしばらく見つめあったあと、また、どちらからともなく目をそらす。
ただそれだけの、でも幸福な時間。
桜色の甘い幻想。
情景がにじむように消えて、美菜子の体がくずおれた。崇志の腕のなかに抱きとめられる。
「美菜子! おまえがいなかったら、意味ないんだよ」
声をふるわす崇志に、美菜子のささやく声が聞こえた。
「わたし、あなたと結婚して、ふつうの奥さんに……なりたかった…………」
ガクリと、美菜子の首から力がぬける。
崇志が肩をふるわせながら抱きしめる。
二人の下から這いだして、立ちあがった往人がベルトにさした包丁をぬきとる。崇志の背中につきたてようとするので、蒼嵐は体ごととびついて、ひきとめた。
「往人……」
首をふると、蒼嵐の目をのぞきこんで、往人は包丁をおろす。
「行こう」
「うん」
蒼嵐たち三人が逃げだそうとしたときだ。
崇志は美菜子の体を地面におろした。
そして、穴のあいた美菜子の胸に手をつっこむ。
崇志が何をするつもりなのかは、すでにわかっていた。
美菜子の心臓を食う気だ。
妄執のこもったその姿に、ゾッとして、蒼嵐はかけだした。
一度だけふりかえってみたが、崇志の背中は飢えた獣のようにしか見えなかった。
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