第5話 玻璃鏡 その五
龍郎は悲鳴の聞こえたほうへ急いだ。裏庭に離れがある。しかも、窓を見ると、龍郎の部屋と同じくらいの大きさだ。
あそこにまちがいない!
必死に走っていくと、窓からなかのようすが見える。電球の薄暗い明りが室内を照らしている。
物置のようだ。いや、何かの作業部屋だろうか。床はコンクリで、作業台の上に工具が散らばっている。すみのほうには材料らしい木の角棒や鉄板のようなものもある。
離れのなかをひとめ見て、龍郎はカッとなった。
なんてことだ。
各務文雄は掛け値なしの変態だ。むしろ殺人狂と言ったほうがいい。青蘭を裸にして作業台の上に乗せ、台の四すみの脚に手足を縄で縛っている。
その青蘭を見おろしながら、チェーンソーを今にもふりおろそうとしている。ウィーン、ウィーンとエンジンの音がうるさく響く。
「やめろッ!」
叫んだときには、血しぶきがあがっていた。窓ガラスにベッタリと赤い花が咲く。
「青蘭ーッ!」
泣きそうな思いで、離れの戸口を押しあける。鍵がかかっていたので、体当たりして扉をやぶった。が——
なぜだろうか。
まったく意味がわからない。
離れに押し入ると、青蘭はほとんど全裸に近い状態で、大の字に作業台に縛りつけられていた。
しかし、無傷で龍郎を流し見ている。どこか冷たい目だ。
「青蘭……?」
幻だったのだろうか?
青蘭のしなやかな右腕が肩から切断されたように見えたのだが?
ぼうぜんとしていると、青蘭が口をひらいた。その声は、やけにしわがれて、青蘭のそれではないかのようだった。
「いつまでボケっとつっ立ってるんだ? さっさと僕を助けろよ」
「あ、ああ……すまない」
それにしても、さっきから、ヒイヒイと変な声が聞こえる。よく見ると、作業台の下に人が倒れている。血まみれだ。
思わず、龍郎は「わッ」と叫んで、あとずさった。
各務文雄が床でころげまわっている。
両目がつぶれ、顔面が真っ赤に染まっていた。近くにチェーンソーが落ちている。ということは、各務は誤って自分自身を傷つけてしまったということだろうか?
また、ぼうっとしてしまっていた。
青蘭が声を荒げる。
「おい、愚民! いつまで、僕をこうしておく気だ? それとも、こういうのが、おまえの趣味なのか?」
青蘭は妙に邪悪な表情で、ニヤリと笑った。たしかに倒錯的なその姿は美しいのだが、そそられるというより、なんだか怖い。
龍郎はあわてて青蘭を縛る縄を解いた。青蘭は体が自由になると、まるで自分が串刺しにした芋虫でも見るような目で、各務を見て笑った。
「じゃあな。青蘭。腎臓の五分の一、たしかに貰ったからな。ああ、わかってるよ。たかが人間の殺人犯相手に、ずいぶんふっかけて。一生、片腕はイヤだろう? わかってますよ」
ブツブツとそんなことをつぶやくと、青蘭はとつぜん、ふらりとよろめいた。龍郎が抱きとめなければ倒れているところだ。
「青蘭? 青蘭? 大丈夫か? 乱暴されたのか?」
見たところ、外傷はない。
だが、どこか殴られていたのかもしれない。
龍郎は急いで警察と救急車を呼んだ。
*
翌日。
青蘭は市内の救急病院で精密検査を受けたが、どこにも異常はなかった。ごく健康体だという。一晩で退院することができた。
各務も逮捕されたし、あの窓ガラスにも、変なものは映らなくなった。
「離れの床から、おじいさんの血痕が見つかったらしい。やっぱり、各務に殺されてたみたいだ。たぶん、あの窓ガラスに映ったものを通して、おじいさんが真実を訴えかけていたんだな」
「そうですね」
病院から帰ってきた青蘭は、いつもどおりだ。邪悪な感じもしないし、不気味な感じもしない。
昨日のあれは、なんだったのだろうか?
「なあ、青蘭?」
「ええ。なんですか?」
「…………」
なんと言って聞きだそうかと、龍郎は迷った。昨日のおまえ、ようすが変だったぞ、と言おうとしたが、青蘭の表情が硬い。そのことについてふれられたくないかのようだ。
「……いや、なんでもないよ。今夜は何を食べたい? おまえの好きなものを作ってやるよ。あっ、でも、おれが作れる範囲のやつにしてくれよ? 舌かみそうな外国のよくわからん料理とか言われても困るし」
「僕、豆乳鍋」
「あれ? 飽きたんじゃないの?」
「誰がそんなこと言いましたか? 手作りの料理って、なんか、あったかいですよね」
「うッ——」
「えッ?」
「な、なんでもない」
今、脳天をガツンと一発やられたような心地になったが、龍郎はその感覚をふりはらった。
気のせい。気のせい。
青蘭がめちゃくちゃ可愛く見えたなんて、そんなのは、きっと気のせいだ。
その夜も二人で鍋をかこんだ。
青蘭との暮らしは、なかなか楽しい。
ただひとつ気になるとしたら、この部屋にはたくさん霊がいるらしい、ということ……。
了
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