第7話 人魚 その二
*
喫茶店を出て、さらに道なりにグネグネすること三十分。
谷あいの盆地に小さな漁港があった。
防波堤にかこわれた港にボートのように小さな漁船が十数隻つながれている。近くに漁業組合だろうか? さびれた建物が一軒、ぽつりと建っていた。
しかし、暗い。
閑散としているというだけではない。
どこがとは言えないが、どことなく空気が淀んでいた。
車を漁業組合の前に停めて降りる。
港に人影は見えなかったが、建物のなかには誰かいるだろうと思った。だが、入口はシャッターがおろされている。ほかにドアや窓はない。
「困ったなぁ。誰もいないのかな?」
魚を入れるためのカゴらしきものや網などが、かたまって軒下に置かれているが、それは長いこと使われたようすがなかった。
猫の子一匹、見あたらない。
もしかして住人がいなくなった廃村だろうかと、龍郎は考える。
「あっちのほうに屋根が見える」
青蘭が遠くを指さす。
たしかに、瓦の屋根が木陰の向こうに見えていた。
「行ってみましょう」
青蘭が言うので、龍郎は彼のあとを追った。
しばらく道沿いに歩いていくと、ポツポツと数軒の家屋があった。
古い建物であることは、ひとめでわかる。どれも築三十年以上はたっているだろう。見た感じ、無人のようだ。というより廃屋のようなふんいきだ。
脇道に入っていくと、雑木林の奥にも、かたまって十軒ばかりの家が建っていた。
「廃村じゃないのか?」
龍郎が言うと、青蘭はまっすぐ指をさす。そのさきをたどってみると、窓の向こうに人影があった。
「あっ、誰かいる」
「聞きこみに行ってきてください」
「えっ? おれが?」
「僕のお金でフィッシュサンド、食べたでしょ?」
「いや、だって、経費はそっち持ちだって」
「だから、初仕事」
初仕事ならすでに車の運転をさせられていると思ったが、雇い主は青蘭だ。まだサラリーを受けとったわけではないが、いたしかたない。
「わかった。行ってくる。おまえはいっしょに来ないのか?」
「聞き込み一つ、一人でできないんですか?」
「行ってくるよ!」
しょうがなく、龍郎は初めて探偵らしい仕事のために歩きだした。
アスファルトの道路の両脇に雑木林があり、その林にわけ入るような土の小道が続いている。小道のつきあたりに一軒家が建っていた。人影が見えたのは、そこの二階だ。しかし、建物の手前まで近づいてみたときには、窓辺から人の姿はなくなっていた。
とはいえ、ただ帰るわけにもいかない。幸い、古い建築にも呼び鈴はついていた。ピンポンピンポンとしつこいほどラッシュするものの、誰も出てこない。もちろん、玄関ドアには鍵がかかっていた。こういう田舎では、たまに鍵があけっぱなしのことがあるので期待したのだが、なかなか警戒心の強い村のようだ。
「ダメだった。まったく出てこないよ。高級布団のセールスか保険の勧誘だと思われたのかもしれない」
道端で待つ青蘭に報告すると、上司は浮かない顔をした。使えない部下だと思われたのだろうかと案じたが、返ってきた答えから鑑みるに、そうではないらしい。
「あの匂いがさっきから、とても強くなったんだ。ここか、この近くで間違いない。そして、このあたりにひそんでるヤツは雑魚じゃない。かなり上位の悪魔だ。ことによると最上級の魔王クラスかもしれない」
「そうなのか?」
「雇ったばかりで悪いけど、君の命の保証をすることが難しい。もしものときに、自分が助かるチャンスがあれば、君は迷わず逃げるんだ。僕は……なんとかなるから」
そんなことを言われても、龍郎は友人を置いて自分だけ逃げることのできる性格ではない。きっと、青蘭は龍郎を友人と思ってはいないだろうが……。
「もう少し、このへんを調べてみよう」と、青蘭に言われて、周囲を歩きまわった。
しかし、廃屋のような陰気な家がぽつり、ぽつりと散見できるだけだ。なかには塀がくずれ、屋根が傾いて、無住らしいことがハッキリとわかる家屋もある。
「誰もいないなぁ」
「でも、さっきの家には誰かいたろ? 君がしっかり聞きこみしていれば問題なかったんだ」
「まあ、そうだけど」
ゆるやかな坂をのぼっていた。
カーブが海に向かって伸びている。こんな薄気味の悪い廃村でながめるには場違いなほど、うららかで美しい海の景色。
「あッ。青蘭。あそこ見ろよ。クジラがいる」
水平線と海岸のまんなかあたりに、クジラの巨体が黒く浮きあがっていた。が、それを見た青蘭は鼻先で笑う。
「島ですよ。クジラじゃない。そもそも、あんなに大きなクジラいないんじゃないですか? 世界最大のシロナガスクジラだって、体長は三十メートルあまりですよ? あれ、ここからの感じだと、二、三十キロはあるんじゃないですか?」
「……ごめん」
「別に謝る必要はないけど。龍郎さんは子どもだなぁ」
あっはっはっと、声高らかに笑われてしまった。
「青蘭。さき行くぞ?」
龍郎が照れかくしにカーブをまがったときだ。坂道のさきを人が歩いていた。
「あっ、青蘭。住人だ」
「追いかけて」
「えっ? うん。わかった」
おそらく百メートルは離れている。
ここから走っていって追いつけるとは思わなかったが、言われるままに龍郎はかけだした。
だが、最初の予測に反して、ぐんぐん追いつける。
(なんだろう? あの人。足が悪いのかな?)
なんとなく、歩きかたがおかしい。
半分ほど距離がちぢまったとき、相手がこちらをふりかえった。龍郎を見て、あわてて走りだす。
「あ、ちょっと! 待ってください。道を聞きたいだけなんです!」
ウソをついて相手をとどまらせようとしたが、さらに焦ったふうで歩調を速める。それにしても、かなり遅い。
数分後には、龍郎はその人の二十メートル手前にまで迫った。
その人はどうやら、道路脇に建つ平屋建てに逃げこもうとしているようだ。
「待ってください。話がしたいだけなんです! 道に迷って——」
平屋建てまで、ほんの数メートル。
龍郎とその人の距離は十メートル。
龍郎が追いつくほうが早い。
平屋建ての引戸の目前で、龍郎はその人に手が届くところまで来た。思わず、手を伸ばして腕をつかんだ。とにかく誰からでもいい。話を聞きたい。
が——
(あッ——!)
龍郎はあわててつかんだ腕を離した。
ありえないものを見たのだ。
その人は龍郎がひるんだすきに、平屋建てのなかに入ってしまった。
(今の……)
立ちつくしているところに、青蘭が追いついてきた。
「なんで逃がしたんですか? つかまえてたでしょ?」
「だって……」
「だって?」
「いや……」
言えない。
あの人の腕に、鱗が生えていた、なんて……。
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