第七話 人魚

第7話 人魚 その一



 どこまでも広がる青い海原。

 反対側は目を圧するような緑の稜線りょうせん。海岸に接する山ぎわは切りたった絶壁になっている。

 その海と山の境界を巨大な竜の飛翔の軌跡のように、どこまでも雄大に伸びていく一本の車道。


 中古の軽自動車の運転席から、龍郎はこの景色をながめていた。もっとも、外を見ている余裕はない。免許とりたてなので、ハンドルにしがみつきながら蛇行する道に食らいつくのがやっとだ。

 ミラーに映る後部座席の青蘭が、優雅に窓外をながめているようすが、うらやまめしい。正しく言えば、羨ましく、恨めしい。


「ほんとに、こっちでいいのか? 青蘭」

「たぶん。まちがってはいないと思いますよ。以前から、このあたりには気になる匂いがあったので」

「こんなことなら、もっとちゃんと、兄さんに聞いとけばよかったな。たしか、このあたりの小さな港町で出会ったんだって言ってたけど」

「だから君は愚民だというんだ。義理とはいえ姉になる女のことくらい、もっと知っておくべきだろ」


 久々の愚民あつかいに、龍郎はヘコんだ。が、運転中なので気をぬくことも許されない。龍郎の気分は青蘭に、ハンドルは左右にくねる道にふりまわされる。


 しかし、義理の姉、繭子を探そうと言いだしたのは青蘭だ。

 理由は——


「中位の悪魔など放置しておいても、たいした害はない。が、僕の助手が何度も襲われるというなら話は別だ。さっさと退治しておくにかぎる」というのだ。


“僕の”助手と言われて舞いあがったのもつかのま、またもや青蘭の口から出たのは“愚民”だ。まだまだ二人のあいだの溝は深い。


 繭子が県内でもほとんど人の通わない僻地へきちの漁村の出身であることは、以前、兄が語っていた。兄嫁が今、そこに帰っているという保証はないが、調べてみる価値はある。

 兄から得た義姉の情報はそのていどのものだった。あとは青蘭の悪魔の気配をかぎあてる能力に賭けるしかない。


 というわけで、中古の車を即金で買いとり、朝から海岸線沿いの道を二人でドライブとあいなった。漁港に到達するたびに降りて聞きこみをするが、義姉を知っているという人には出会えない。

 道はどんどん細くなり、草や枝が大胆に路面にはみだしてくる。海は深いし、山も深い。こんなところに人が住んでいるのかと危ぶまれる。


「景色はいいなぁ。でも、運転、疲れてきたよ。なあ、青蘭。ちょっと休ませてくれないか」

「休むって、どこで?」

「あっ、ほら。あそこに喫茶店があるぞ」

「ふーん。すごい場違いだな」


 ちょうど登り坂の頂点に一軒の小綺麗な建物があった。木製のいい感じの風合いの看板が、そこを訪れる人に、ひとときのやすらぎと潤いをあたえてくれる場所であることを告げていた。


「こんなところに喫茶店なんて、客が来るのかな?」と、青蘭は不審げな目つきでレンガ造りの建物を見る。

「いいじゃないか。きっと年金暮らしの老夫婦の趣味の店だよ。利潤は度外視なんだろ?」


 崖の上の一軒家だ。周囲には家屋らしいものはなく、人工物といえば、アスファルトの敷かれた道路しかない。どんなに美味しいコーヒーを飲ませるとしても、それだけのために、わざわざ、ここへ通う客があるとは思えなかった。


 ところが、カランカランと来客を知らせるドアチャイムがわりのカウベルみたいな大きな鈴を鳴らして店内へ入ると、龍郎の予想は二つも裏切られた。


 第一に経営者は老夫婦ではなかった。二十代の後半から三十一、二歳くらいの茶髪のセミロングの女がカウンターの内側に立っている。

 洋風の猫みたいな目をした美人だ。華やかな顔立ちをしているので、こんな僻地の喫茶店というより、都会のバーのママでもしているタイプに見える。


 第二に、客がいた。

 崖の下の海原が一望にできる大きな窓ぎわのテーブルに一人ですわっている。客の女は四十代の半ばくらいで、地味な服のせいか、なんだか、やつれた印象だ。まじろぎもせずに眼下を見おろしている。


 龍郎と青蘭は聞きこみの必要もあるので、カウンターにすわった。店のなかには音楽がかかっていないため、潮騒がよく聞こえた。冬なので、波が高いのだ。


「いらっしゃい。観光ですか?」と、カウンターの向こうから女店主がたずねてくる。

「ええ、どうも。おれはコーヒー。軽食がありますか? 腹が減って」

「どうぞ」

 メニューが手渡された。

 サンドイッチやオムライスなどの簡単なものしかない。


「おすすめがありますか?」

「フィッシュサンドね。漁港が近いから、お魚は新鮮なのよ」

「漁港?」

「そう。このさきの盆地になったところに。車で……そうね。三十分ほどかな」


 こんな奥地にも漁港があるのか。

 なんとなく胸騒ぎがした。

 しかし、平静をよそおって、フィッシュサンドを注文する。


「青蘭は食わないの?」

「僕はけっこう。紅茶をください」

「おまえ、食が細すぎるよ。女みたいだ」

「ここの魚は口にあわない」


 店主の前で無神経なことを言うので、龍郎はあせった。

 青蘭の耳元でささやく。

「ギョッとすること言うなよ」

 なぜか、青蘭は笑う。

「龍郎さん。おもしろい。ギョッとだって。魚なだけに、ギョッと」

「ギャグのつもりじゃないんだけど?」

「じゃあ、パンケーキくらいならいいかな。誰が作っても失敗しないでしょ?」


 龍郎は頭をかかえた。

 青蘭の選民思想は根深い。

 いまだに愚民あつかいされるが、これでも龍郎には心を許しているほうなのかもしれない。


 店主はとくにムッとしたようすもなく、仮面を張りつけたようなポーカーフェイスで、オーダーどおりの料理を作り始めた。内心は腹を立てているのではないだろうかと、龍郎のほうが気になってしまう。


 龍郎は店主の顔色をうかがいながらたずねる。

「さっき、漁港があると言われましたね? そこに、もしかして、繭子さんという人がいませんでしたか? 知りあいなんですけど、前に小さな漁港で働いていたらしいんですよ」

 店主はパンケーキをあざやかに裏返しながら、首をかしげる。

「繭子さん? さあ……名字はわかりますか?」

「旧姓がわからないんですよね。結婚後の名前は、本柳でしたが」

「ちょっと、わかりません。漁港の人に聞いてみてください」

「ですよね」


 あきらめて出された料理をひたすら食う。フィッシュサンドはたしかに、ひじょうにおいしかった。白身魚のフライと、蒸しエビのサンドイッチ。味付けも悪くないのだが、とにかく素材の鮮度がいい。こんな美味な魚は生まれて初めて食べた。


「うわっ。めっちゃ美味いよ。青蘭。おまえも頼んだらよかったのに」

「僕はけっこう。夜中にうろこが生えてきたらイヤですから」

「おまえのジョーク……笑えないよ」


 これという情報を店主から得られなかったので、龍郎たちは飲食をすませて、店を出ることにした。

 金を払ってカウンター席を立つと、あのテーブルのところにすわった女のよこを通る。そのとき、女がつぶやいた。

「ほら。あそこに見えるでしょ? あれが、わたしの主人なんです」


 女が指さすので、見ると、崖下の岩場から海面にむかって網をなげている男がいた。何度も何度も執拗にくりかえしている。だが、網に魚がかかることはないようだ。それでもあきらめずに投げ続けている。そのようすはなんだか鬼気迫るものがあった。


「ご主人は何をとっているんですか?」

 たずねると、女はニヤリと薄気味悪く唇をめくった。

「人魚ですよ」

 嘘なのか冗談なのか、よくわからないことを言う。


(ちょっと危ない人だったかな?)


 龍郎が頭をさげて立ち去ろうとすると、女はこうも言った。

「あの人に伝えてください。わたしはもう帰らない。わたしを探さないでくださいと」

 そう言って、女はまた窓の外を見つめた。

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