第7話 人魚 その三



 あれは見間違いなどではなかった。

 たしかに鱗だ。

 薄い緑色の硬質なガラスのような破片がかさなりあって、袖の下から覗いていた。



 人魚を捕まえてるのよ——



 ふと、そう言った女の言葉が思いだされる。


 立ちつくす龍郎のかたわらを通りこして、青蘭が平屋建てに近づいた。

 ドンドンと遠慮なく引戸を叩くが、なかから返答はない。


 すると、いつのまに、そこにいたのだろうか?

 とつぜん、背後から声をかけられた。

「おまえさんがた、早くここから出ていきなされ」

 ものすごくアナクロな年よりくさい口調だ。

 ふりむくと、道ばたの石におばあさんが座っている。見たところ百歳には達していそうな老婆だ。


「こんにちは。おばあさん。このへんの人ですか?」

 龍郎がたずねると、老婆は、のそっとうなずいた。

「じゃあ、教えてもらえますか? このあたりに繭子さんという人が住んでいたはずなんですよ。その人の自宅へ行きたいんですが」


 ジロッと老婆の目つきが陰険になる。

 何かいけないことを言ったのだろうか?


 老婆は片方だけ白く濁った目で、龍郎をにらむ。

 なんだか死んだ魚の目のようだと、龍郎は思った。そう考えてしまったことを次の瞬間には申しわけなく感じる。きっと、白内障なのだろう。内心でとはいえ、病気の人に差別的な表現をしてしまった。


 きっと、さっきの鱗のせいだ。人間の腕に鱗が生えているなんて……。


「おまえさん、何者じゃ?」

「えっ? ふつうの大学生ですが」

「あの女の知りあいなんじゃろ?」

「えーと……」


 そこで、龍郎はハッと気づく。

 もしや、老婆は繭子が人ではないと知っているのだろうか?

 だから、繭子に会いにきたという龍郎を警戒したのだ。


「……すみません。じつは、繭子さんは兄の配偶者です。半年前に結婚したんですが、行方をくらましてしまったので。兄が——」


 言いかけてくちごもる。

 これを打ちあけてもいいのだろうか?

 兄が繭子に殺されたのだと。


 迷っていると、老婆の目つきがやわらいだ。

「お兄さんが取り殺されたんじゃないかねぇ? あれはな。人じゃない。化け物じゃ。おまえさんにもわかっておるじゃろ?」

「はい」

「悪いことは言わん。このまま帰りなされ。今度はあんたが、アレに取り殺されるぞよ」


 そうかもしれないが、向こうから追ってくるのだから、どこに行っても同じ気がした。


「ありがとうございます。でも、行かないといけないんです。ところで、おばあさん。このあたりの家は無人のところが多いみたいですね。みんな、働きに出ているんですか?」


 老婆は悲しげな目になった。


「わけが知りたいかい?」

「はい。教えてください」

「いいじゃろう」


 そう言って、老婆はしゃがれた声で語りだす。

「この村は見たとおり漁師の村でな。村人はみんな漁をしながら暮らしとった。村一番の腕前の男がおったんじゃ。男には女房と一人息子がおった。じゃが、息子は幼くして病で亡くなってしまった」

「亡くなったんですか。それは悲しいですね……」

「そりゃもう嘆いてなあ。とくに女房の嘆きは深かった。毎日、息子の墓前で泣いとったんじゃが、あるとき、ふらりと崖の上から飛びおりてな……そのまま遺体は見つからんかったんじゃ」

「痛ましいことです」


 龍郎がつぶやくと、老婆はちょっぴり意地悪な顔つきになった。

「何が痛ましいもんか。迷惑したのは村のみんなじゃよ。じつは息子が亡くなる前にな。男は禁を犯したんじゃ」

「禁……ですか?」


 老婆の双眸が青い海原をあおぐ。

 まるで南の国のそれのように、怖いほど澄んだ明るいマリンブルーの海へ。

 ふりかえった龍郎は、老婆のながめているのが、あのクジラのような形をした島だと気づいた。


「あの島が……何か?」

 忌まわしいものを見るような老婆の険しい目つきにけおされて、龍郎はゴクリと生つばを飲みおろす。


「昔から、あの島は神域だと言われとった。誰も近づいちゃいかんとな。人間の立ち入っちゃならん場所だと伝えられてきた」


 海辺によくある、地方の古い信仰にかかわることだろうと、龍郎は考えた。

 しかし、老婆の口からは思わぬ言葉がもれる。


「あの島には人魚がおるんじゃ」

「人魚……ですか」


 龍郎のとなりで退屈そうにしていた青蘭が、急にピクリと耳をそばだてる猫のように目をみひらいた。

 この話に関心を持ったらしい。

「それは、いつごろから?」と、積極的にたずねる。


「うん。ずいぶん昔から言われることじゃでなあ。何百年も前のことだろうよ」

 答えておいて、老婆は話の続きを語る。

「人魚の肉は万病の薬と言うじゃろ? 男はまだ子どもが生きておったときにな。禁断の神域に一人で漁へ行ったんじゃ。人魚はとれんかったが、そこでとれた魚を息子に食わした。息子はその日の夜になって容体が急変したんじゃ。神さまのバチじゃったんじゃろう」


 魚を食べさせたから死んだわけではあるまいと、龍郎は内心、思った。田舎の人は迷信深いから、禁忌を犯した男を、あれこれと口うるさく揶揄やゆしているのだと。


 しかし、老婆の話はこれで終わりではなかった。むしろ、ここからが本番だったのだ。

「それからじゃのう。このあたりでとれる魚を食べるとな……」

「食べると?」


 思わず、龍郎は身をのりだした。

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