第一話 スーツケースの男

第1話 スーツケースの男 その一



龍郎たつろう、ひさしぶり。元気か?」


 二ヶ月ぶりだろうか?

 兄から電話がかかってきた。


 このところ、龍郎自身も就職活動で忙しく、あまり話す時間もなかったが、いったい、どうしたというのだろうか。

 たった数ヶ月のことなのに、ひさびさに聞いた兄の口調には疲労が感じられた。「元気か?」という、兄自身の声が消え入りそうだ。


 龍郎は異様に感じた。


 なぜなら、兄は半年前に結婚したばかりの新婚家庭だからだ。両親に反対されても押しきって結婚にふみきったほど愛した人との甘い生活。今ごろは幸せいっぱいのはずではないのだろうか?


「ああ。おれは変わりないよ。兄さんは? なんか、声、暗いけど」

「ああ……」と言ったきり、兄は長いこと沈黙していた。

 数分もたってから、やっと応えが返ってきた。


「今夜、会わないか? おまえも成人したんだし、たまにはいっしょに飲もう」


 電話では話せない内容なのかもしれない。


「わかった。どこで落ちあう?」

「うちの近くに『かがり火』って居酒屋がある。そこで会おう」

「うん。じゃあ、七時ごろに行くよ」


 ほんとうは明日も講義があるし、あさってには面接の予定がある。あまり体調をくずしたくないのだが、兄のようすが心配だった。


 龍郎は少し早めに家を出て、電車に乗った。

 兄の住居の近くへ行くのは半年ぶりだ。兄のたもつが結婚する前は、よく夕食を浮かせるために遊びに行ったが、新婚夫婦のジャマをするのは悪いと思い、足が遠のいていた。


 先祖は武家で、実家は山奥にある。

 兄も龍郎も大学入学を機に県庁所在地のM市で一人暮らしを始めたため、家族と顔をあわせることは長い休暇のときくらいしかない。


 六つ年上の兄はM市では最大手の銀行に勤務し、たまに会えば、龍郎にも小遣いをくれた。兄弟仲はいいほうだ。


 だからこそ、沈んだ兄のようすが気になる。


 古い石畳の残る城下町。

 日の暮れていく街並みを電車の窓からのぞいていると、なんとなく物悲しくなった。


 就活を始めてから、人生初の挫折を味わいつつある。

 成績は悪くないし、スポーツは趣味で楽しむには充分なくらいには万能だ。ルックスは、けっこういいと自負している。背が高く、足が長く、昔から女の子にはモテた。


 しかし、面接官はたいてい、おじさんだ。

 龍郎の笑顔は面接官には無力だった。

 手堅い地元銀行に就職して、着実に昇級していく兄を尊敬してやまない。


 今日の夕日はなんだか異常だ。

 真紅に焼けた空に黒雲が何層も筋になって、赤と黒の縞模様になっている。見なれた町の風景が、どことなく異世界に迷いこんだかのように薄気味悪い。


 龍郎のアパートから兄の自宅までは各駅停車で三駅ほどだ。それほど遠くない。

 だが、ガタゴト電車のゆれに身を任せていると、このまま知らない町へ行ってみたいような気分になった。


 このまま、遠く、どこまでも遠く……。


 ノスタルジックな気持ちにひたりながら、外を流れる景色を見ていた龍郎は、ふっと視線を移して、ななめ前にすわる女に初めて気づいた。


 思わず二度見してしまった。

 ビックリするほどの美女なのだ。


 ぬめやかに白い肌。赤い唇。

 宇宙の深遠をのみこんだような神秘的な黒真珠の瞳。

 長いまつげが物憂い翳りを作っている。


 こんなに美しい人を見たことがない。

 やっぱり、知らないうちに、この世とは違うどこかに入りこんでしまっていたのかもしれない。


 そんなふうに思いつつ、見とれていた。


 つややかな黒い長めの前髪が電車のゆれにあわせて、ほおをなぞる。


 服装はシンプルな黒いパンツスーツ。

 スレンダーでボーイッシュな彼女によく似合っている。


 たぶん、たっぷり五分は見つめていた。

 不審に思われるほど凝視した。


 そのとき、電車の速度が落ちた。

 次の駅のホームへ入っていく。


 アナウンスののち、プシュッとドアがひらき、数人がおりた。入れかわりで同じくらいの人が乗車する。


 そのなかに一人の男がいた。

 一見、どこにでもいる平凡なサラリーマン風だ。くたびれたグレーのスーツを着て、大きなスーツケースを持っている。旅行客なのだろう。その黒いスーツケースがあまりにも大きいので、ちょっとだけ目をひいた。


 男は車両の一番端に歩いていった。すみの席にひっそりとすわる。そこは優先座席のむかいがわだ。優先座席には老人と妊婦が一人ずつ、少しあいだを置いて腰かけている。


 ちなみにシートは車両の外壁にそった横長式だ。シートの数は片面に三つずつの計六つ。


 男のあとから女子高生が五、六人でかたまりになって乗車してきた。ほかにも買い物袋をさげた五十代くらいの主婦や、職業の想像がつかないチャラそうな若い男。龍郎と同じ学生か、フリーターなのかもしれない。


 ついでに言えば、もともと乗っていた客には保育所帰りらしい幼児とその母親。子どもはクマのアップリケのついた園児服を着ている。ツインテールの女の子だ。


 定時で帰宅中とわかる三十代の女と、サラリーマン。サラリーマンはあるいは出先から会社へ戻る途中かもしれない。


 中学生の男子が二人、スマホで対戦ゲームをしているようだ。音は消しているものの、二人ともゲームに夢中になっている。


 そんなメンツのなかで、あの美女はとにかく目をひく。

 乗客の移動がすんで、電車がゆるやかに動き始めると、龍郎はまた、こっそり、その人をながめた。


 しかし、瞬間、ギョッとする。

 絶世の美女の目つきが険しい。


 さては痴漢でもされているのかと思うが、彼女のまわりには男どころか、誰もいない。別世界の生き物を遠巻きにするように、なんとなく無人になっていた。


 なのに、美女はまるで、車内にゲロか生ゴミか切りきざんだ腐乱死体でもぶちまかれたかのような嫌悪感をあらわにした目つきで、キョロキョロとあたりを見まわしている。


 そして、美女はあの男に気づいた。

 大きなスーツケースをたずさえた、冴えない中年男に。


 つかのま男を見つめたあと、美女は周囲をうかがった。

 車内にいる乗車客の一人一人の顔色を観察しているようだ。一人につき数秒だが、その挙動はあきらかに、さっきまでの物思いに沈むようすとは違う。


(なんだろう? 別に変な匂いもしないしな。何かあったのかな?)


 じゅんぐり見まわす美女の視線と、龍郎の視線が交差した。

 あわてて、龍郎は目をそらした。わざとらしくはなかっただろうか? 美女に不愉快に思われたのではないかと考えると、ちょっとヘコむ。


 うつむいて顔をそむけたさきには、スーツケースの男がいた。


(あれ? 何してんだ? こいつ)


 思わず、龍郎は男の顔を見直した。

 それでなくても大の男がまるまる一人は入りそうな巨大なスーツケースだ。通路をふさいでジャマになるというのに、男は留め金に手をかけて、ひらこうとしている。まさか、この車内でひろげようというのか?


(なんだろう? マップでも見るのかな? それともスマホでもとりだすつもりか? 迷惑なヤツだな)


 他人の迷惑をかえりみない行為を平気でするマナーの欠如した人間は、どうも嫌いだ。


 ちょっと雑誌でも出してみるだけなら、さほど時間もかからないだろうが、もしも、むかいの席の老人や妊婦を困らせるようなら注意しようと、龍郎は考えた。


 ドアをはさんで、となりの席——つまり、龍郎と同じシートの左側には女子高生たちが並んですわっている。

 にぎやかな笑い声が車内にひびいていた。


「知ってる? 三年の立林先輩、里緒菜のこと好きらしいよ」

「ええっ! ウソ! ありえないよ。立林先輩が?」

「趣味悪くない? 里緒菜はないよね」

「あたし絶対、土屋先輩とつきあってると思ってたぁー!」

「土屋先輩なら、あきらめつくけどねぇ」

「お似合いだもんね」

「ええ、でも、じゃあ、土屋先輩、傷つくよねぇ?」

「まあ、あたしらには関係ないけどさ」

「さおりん、よく言うよぉ。立林先輩の前では、超猫かぶりのくせにぃ」


 龍郎はしばし、少女たちのおしゃべりに気をとられた。

 たわいもない会話がほほえましい。


 そのとき、とつぜん、制服を着た少女の背後に黒いものが伸びてきた。一瞬、人影が立ったのかと思った。しかし、次の瞬間には、その影は消えていた。

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