第8話 『二人の野球バカ』

 桜の季節が到来。


 気温と天候に左右されて平年より開花が遅れた桜は入学式で綺麗な花を咲かせた。


 夕凪高校の校門を潜れば春風に煽られて散らす花びらが新入生を勧誘しているかのように宙を舞う。満開の桜並木に歓迎されながら多くの新入生たちが校舎へと続く一本道を歩く。校舎前にはクラス分けの掲示板が設置され、期待と不安の眼差しで自分の名前を探しながら当てられた教室を確認している。


「あれじゃ確認するのも難しいか」


 掲示板に群がる新入生たちを見て俺は足を止めた。上着のポケットから携帯を取り出して時間を確認する。


「まだ時間には余裕があるな」


 学校側から指定された時間まで四十分程度の余裕があることを確認し、近くにあるベンチに腰を下ろす。掲示板前から人がはけるのを待つには丁度良い場所だ。


「さて、何をして時間を潰そうか……」


 何もせずに時間を潰すのはもったいない。当校では携帯の持ち込みが自由にされていることからゲームでもして時間を潰すことも出来るのだが、快晴の上に満開の桜を前にして花見をしないのもおかしな話だ。


「しかし、見事な桜並木だな」


 数十本に渡る桜並木が校内で所持しているのは全国を探しても夕凪高校だけだろう。


「桜はここ美麗みれい町が誇る名産ですので、お爺様も奮発したそうです」


 独り言に対して返答がきたことに驚きながら、声が届いた方向に視線を向けると女子生徒が立っていた。


「驚かせてしまいましてごめんなさい。でも、どうしても貴方とお話をしたかったものですから」


「俺とですか? ……どこかで逢いましたか?」


 良くも悪くも野球漬けの毎日を過ごしてきたことで色恋沙汰が起きるような学生生活は送ってこなかった。退部してからも、人生に絶望していたことが他人を寄せ付けない空気となって話しかけづらかったようだ。それは氷室姉妹と出逢ったことで払拭されたが、今度は野球漬けの毎日が復活したので結局は元に戻っただけである。

つまるところ眼前の女子生徒に一切の覚えがない。


「いいえ。こちらが一方的に存じているだけで、こうしてお逢いして話をするのは初めてになります」


 女子生徒は腹の上に両手を重ねてお辞儀をした。一つ一つの仕草が彼女の育ちの良さが素人目からでも分かる程に洗練されている。


「私は新田雛。親しみを込めて雛とお呼びください」


「……新田? 確か校長の苗字が――」


「はい。校長の新田源介は私の祖父になります」


 思いも寄らぬ人物からのアプローチに二度目の驚きを迎えた。美麗町が地元ではない俺にとって面識があるのは氷室姉妹だけである。


「……そうか! 氷室先生経由か!」


 夕凪高校の教師である朱里なら校長と面識があり、その経由で孫である雛と顔合わせしていてもおかしくない。


「そうですね。間接的ではありますが、氷室先生のおかげで貴方のことを知ることが出来たのは確かです」


「間接的に? 直接ではなくてか?」


「はい! 実は秋頃に貴方と女の子が投球練習しているのを校長室から見てて。その時に氷室先生が野球部を創設するとお爺様から聞きました!」


 先程の礼儀正しい姿からは想像できない程に鼻息を荒くした雛が距離を縮めてくる。暴走気味の反応と行動に気圧される一方、その奇行を上回る女性特有の甘い香りが脳を揺さぶる。そこに追撃ちをかけるように雛は俺の手を掴み取ると強く握ってきた。興奮することで高まった体温が柔らかい手を通って伝わってくる。雛の体温が伝染したように俺の体温も上昇していった。


「で、できれば手を離して欲しいんだが……」


「え? ……す、すいません!」


 指摘されて初めて俺の手を握っていたことに気付いた雛は顔を紅潮させながら手を離した。


「すみません……。どうも野球の事になると我を忘れてしまって……」


「野球が好きなのか?」


「はい! 大好きです! こうして貴方に声をかけたのも私をマネージャーとして入

部させてほしかったからです!」


「マネージャー?」


 雛からの突然のカミングアウトと同時に校内に予鈴が鳴るのだった。

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