誰そ彼

 水溜まりに信号の光が不気味に揺らめく。夕焼けでもないのに赤暗く伸びる道は、私をいやに不安にさせた。立ち止まっているのがもどかしくて足踏みをすると、小さく撥ねた水滴が足首を濡らした。



 顔をしかめながら前を見ると、道は青く染まっていた。横断歩道に一歩踏み出すと、突如として、道路の黒に怖さを覚えた。白で挟まれたその黒は、私を呑み込もうと待ち構える深淵のようだった。恐る恐る白だけを踏む。一歩一歩、決して違わぬように。渡り終える頃には、とっくに青は点滅していた。



 大通りを抜け、人通りのない路地へと進む。入り組んだ道々は見通しが悪い。曲がった先に、何かが潜んでいてもわからない。そう、例えばここを曲がった先の電柱に、誰かがいても――


 

 ガサガサと、その電柱近くの生垣が揺れた。夜風に吹かれただけにしては、不自然に。歩む足が止まる。普段なら、意に介さず通り過ぎるだろうに。どうにも今日は、やけに些細なことに脅迫されるようで。道先を見るのが怖くなって、足元を見て、ぞっとした。つま先から拳大の距離に、ミミズが白んでいる。おぞましさに顔をしかめる。ああ、醜い。汚らわしい。私には、名も知らぬ彼の死を悼むほどの慈しみなどない。元からか、はたまたいつかに失ったのか。そんなことよりも、数歩先の何かへの怯えで崩れ落ちそうになるのは、我が身の可愛さ故であることを否むべくもない。



 彼を踏み潰し、前へ。躙った彼のことは、きっとしばらく忘れない。私の決意にする。私の糧にする。もしも曲がった先に、飢えた怪物がいたなら、私の片足を脱ぎ渡し、その裏にへばりついた彼を囮に、逃げ延びるのだ。きっとそれまでは、忘れぬ。


 

 よく距離を置き、曲がり角に差し掛かる。件の電柱の陰には、黒く小さな塊が蟠っていた。猫だ。黒猫だ。どうやら、大切な大切な名も知らない彼を差し出さなくともよさそうだ。不吉を呼ぶとかなんとか聞いたことがあるが、幸い私には彼がついている。大丈夫だ。黒猫の顎を撫でると、それは気持ちよさそうな声音で鳴いた。



 その鳴を聞き、立ち上がって再び歩みを進めようとした私は、道先を向くや否やまたもや石になってしまった。――何かがいる。誰かがいる。数歩先に立ち、こちらを見ている。誰そ彼。黄昏時、というには些か遅いが、そう問うしかあるまいことに、息を呑む。


「あなたは、誰ですか。」


「あら、見えないの。私よ。」


 徐々に闇に慣れた私の双眸には、私が映っていた。寒気が走った。それも極上の。氷水のような汗が垂れた。恐怖で体が踊りだしそうなのを必死に堪える。


「そんなに怯えなくて、いいのよ。」


 その私は、優しく語り掛けてくる。ドッペルゲンガー、だったっけ。確か、ドッペルと本人は逢わないらしいが――そう、逢う時といったら、

 

「――私はあなたに、成りに来ただけよ。」


 ドッペルが、オリジナルの存在を奪う時。らしい。


「私に成っても、いいことなんてないよ。さっきだって、ミミズを踏み潰したの。私が見た時には、とっくに彼は死んでいたけれど。私のために、躙ったの。ほらね、残忍でしょ。そう、私は屑なの。醜いの。だから、私になりたいだなんて、どうか、言わないで。」


 私はちゃんと喋れていただろうか。もう、私は私じゃなくて、奪われてしまったんじゃないだろうか。私の言葉を紡ぐ口が、私以外の誰かのものであるようで。マリオネットの心地だった。


「ふふ、いやね、私。私が私を奪う理由なんて、たった一つよ。あくまで、残忍で、屑で、自己中で、それから、ええと。意地汚くて、馬鹿で、醜悪な私が――悲しむからに決まってるじゃない。」


「え。」


「私のその顔が、悔しみで、悲しみで、恐怖で。歪んでくれれば、それでいいのよ。」


「なんで、そんな理由で。どうして私なの。」


「うーん、そうね。世界が望んだから。なんちゃって。」


「は。」


「私は、いらないんですって。ふふふ、残念ね。そして、残忍なのね、世界も。」


「待って。」


「ううん、待たない。そろそろ、時間。じゃあね、私。あとは任せて。」


 私が歩み寄ってきて、私と重なる。瞬間の、私の素晴らしい顔といったら――


 





 


 

 庭の草に靴の裏をこすりつけ、汚らわしい彼を落とす。せっかく彼がいたのに、終ぞ頼ることはなかった。ホースの水を当て、彼を洗い流す。さよなら、ありがとう。おぞましい彼。水が染みて、片足が不快だった。履いているのが嫌になったので、脱いで手に持ち、けんけんの要領で玄関へ進んだ。


 


 








――その様子を、私はじっと見ていた。




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