空の彼方
彼は、一体どこへ行ったのだろう。ごみだらけの都会かもしれないし、透き通った空気の田舎かもしれない。幸せで満ち足りた桃源郷かもしれないし、目を瞑りたくなるようなスラム街かもしれない。それこそ、三途の川の向こう側だってありえる。
彼は、有体に言えば変わった奴だった。どちらかと言えば悪い意味ではなく、いい意味で。物知りだった彼は、うんちくをよく垂れた。僕の知らない世界のことを教えてくれた。そのうんちくと独特な振る舞いが煙たがられたのか、友人こそ少なかったが、人情をよく解し、思慮深い奴だった。そんな彼は、僕の第一の友人であるとともに、憧憬の対象であった。
彼には、夢があった。しかし惜しむべくことに、僕はその中身を知らない。彼がずっと口をつぐんでいたからだ。曰く、夢は普段から吹聴するより、叶った時にこれが昔からの夢だったんだって打ち明ける方が格好いいから。僕は彼の一存に関して、それだけは納得がいかなかった。だって、夢を公言している人ってそれだけで格好いいじゃないか。それが叶ったら尚更。確かに、彼のように夢を秘めているのだって格好いい。結論として、夢を抱いている人ってのは、総じて眩く輝いて見える。実際彼だって、僕には輝いて見えた。
彼は別れ際、こう言っていた。遠くへ行くと。夢を叶えるために。僕には、それを止める権利なんてなかった。憧れの友人を、晴れて送り出すことしかできなかった。僕の他にもう一人、彼と仲のいいKという奴がいて、そいつは寂しさを隠そうともしていなかった。僕は寂寥を誤魔化し、気丈に振る舞っていたつもりだったが、彼には僕の胸の内などお見通しだったろう。だが、それで良かったのだ。僕はどれだけ彼に見透かされようとも寂寥をひた隠しにし、笑顔で門出を祝福する。彼はどれだけ僕の胸中が汲み取れようとも、素知らぬ顔で前だけを向いて旅立つ。その不器用なやり取りの中に、僕らなりの信頼が転がっていたのだ。
彼を送り出す時から覚悟はしていたが、彼は以降連絡をくれなかった。僕らからの連絡に返信を寄越してもくれない。だから、僕とKは信じて待ち続けるしかない。彼が、夢を叶えて、僕らと酒席で踊るその日を。それまでは、彼がいつどこにいて、どんなに危険なつり橋を渡っていようが、僕らにはわからない。
あるいは――いや、やめておこう。
彼は別れ際、こうも言っていた。僕らは、常に空という樹の下にいると。僕と君たちの隔たりなんて、無いにも等しい。だから、寂しくないと。彼にしては珍しく、月並みな文句だった。それ故に、彼が寂寥に暮れる僕らを見かねて、咄嗟に絞り出したものだとすぐにわかった。
窓越しに空を見やる。気味の悪い曇天だった。彼が今見ている空が、こんな風に薄汚れたものだとは到底思えない。快晴か、晴天か。曇っているにしたって、これよりは幾分かましであろう。そうでなくては困る。故に、彼の談は間違っていた。決して僕らは、同じ空の下になどいない。案外、彼の言うことは綻びだらけだったのかもしれない。勿論、だからといって僕の彼に対する憧憬や信頼が薄れたりなどしないが。
同じ空の下云々の話の否定に追い討ちをかけるつもりではないが、僕は最近こうも思うようになってきた。自分の前から誰かが消えるなら、その誰かは死んだも同然だと。自分の視界から人が去った時、その瞬間からその人の生死はわからなくなる。故に、その人が再び姿を現すまでの間、必然とその人のことを想起するのは記憶、ひいては思い出からとなる。ここで僕は気付いてしまった。その記憶から人間の像を形作る営みは、まるで故人に対してのものじゃないかと。仮に、その人が再び自分の前に姿を現したならば、その時、その人は生き返ったといえる。では、長らく姿を現さなければ――再会することがなければ――その人は死んだままだ。それに則ると、認めたくはないが――彼は、今のところ死んでいるのだ。
やかましく電話が鳴った。そのコール音は、仕事をさぼって在りし日に思いを馳せている僕を叱っているようで、嫌に耳についた。かかってきた番号は、既に登録している者からだった。Kだ。
「おう、久しぶり。どうした?」
「よく聞け。一度しか言わない。あいつが死んだ。」
諸々の挨拶を省き息を切らしながらKが紡いだ言葉は、僕がおおよそ想定した中で最も聞きたくないものだった。――本当に死んでいるだなんて、聞いてないじゃないか。
彼は事故死だったらしい。車にはねられ、ほぼ即死だったそうだ。意外なことに、彼の訃報を受け入れるのに時間はかからなかった。先に述べたように、僕が彼のことをどこか故人のように捉えていたからかもしれない。特別な寂寥もなかった。これも、僕が普段より感じていたからだろう。代わりに、悔恨が込み上げてきた。彼からは、今まで何の連絡もなかった。そして、彼の消息をついさっき知ったということは、彼は終ぞ夢を叶えられなかったということに他ならない。その事実が、鉛のように重くのしかかってきた。
彼の墓前に立ち、花を供える。葬儀から今に至るまで、彼にかける言葉はついに見つからなかった。彼の身内で、彼の夢のことについて語る者はいなかった。本当にひた隠しにしてきたのだろう。彼は最期まで、夢に向かって貫徹していたはずだ。気付けば、僕の目からは雫が垂れていた。もはや何に起因する雫なのかもわからない。悔恨からか、悲嘆からか、あるいは敬意からか。それらが綯い交ぜになっているのかもしれない。止めどなく溢れる雫とは対照的に、未だに言葉は一片たりとも出てこない。うじうじしているうちに、空からも雫が溢れてきた。Kから彼の訃報を聞かされた日のような曇天だ。案外、彼の上にあったのもこんな空だったのかもしれない。やはり、僕らは同じ空樹の下にいたのかもしれない。僕はしばらく彼に手を合わせた後、足早に墓地を去った。
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