時間列車 弍
伸ばせなかった手。告げられなかった言葉。血の花に染まる彼女は微笑んで――悲しそうに微笑んで――
「お客さん、お客さん。起きてください。終点ですよ。」
「うぅ.......すみません。」
朦朧とする頭を起こし、車掌と思しき人間を見やる。
「大丈夫ですか?おじいさん。」
聞き馴染みのないその呼称と、車掌の背後の車窓に映る自分の体貌が意識を醒ました。
「僕は、いつの間にこんな姿に.......」
驚嘆に染まる声は、自分のものとは思えないほどにしゃがれていた。
「ここが終点だからですね。当時間列車の、終点です。当列車は、お客さんの時間を運ばせていただいております。」
「時間.......列車.......」
「お忘れ物のないように、お気を付けて。」
そうか。僕は、無為のままにここまで来てしまったのだな。選択を違えたまま、鉛のような過去を引きずったまま。外は星一つない闇。頼りなく点滅した街灯が唯一の標。僕は言うことのきかない体を操り、しわだらけの顔を昏く歪ませ、列車から降りた。
そのまましばらく立ち尽くしていると、車掌が訝しげにもう一度話しかけてきた。
「もしかして、お客さん。乗り過ごしました?」
「いえ、乗り過ごしたというか.......」
そもそも目的地がなかったから、「ここ」まで来てしまったんだろうが。それを乗り過ごしたと表すのは甘えに過ぎぬ。僕には、ここがふさわしい――
「――ああ、もしかして、やっぱりお忘れ物ですか?」
忘れ物。そうか。僕は、あの日、あの時に、かけがえのないものを置いてきてしまったのか。
「――ええ、そうみたいです。どうやら、途中の駅に。」
「左様ですか。それは、とても大切なものなのですか?」
「ええ、とても。何よりも、大切なものでした。」
「それは大変だ。不躾なことを伺ってしまい申し訳ありません。生憎、もう終電は過ぎておりますが、そのお忘れ物が本当に大切なものなのであれば、きっと、列車は駆けつけてくれますよ。――そうこうしているうちに、ほら。」
甲高くけたたましい音を上げ、反対側のホームに年季の入った列車が停まった。
「それでは、お気をつけて。」
「なんで.......いや、私のせいで.......」
「間に合ってよかったよ。」
本当によかった。だからどうか、どうかそんな顔をしないで。
「どうして、どうして私なんかを庇っちゃったの?ねえ、ねえ.......」
「君のことが、好きだから。」
彼女の大粒の涙が、血で塗られた顔に降ってくる。冷たくもあたたかい、不思議な雫。
「そんなの、私だって、私だって.......あなたのことが――」
彼女の言葉を最後まで聞けなかったのが、唯一の心残りだった。
次に目覚めたのは、あの列車の中だった。車掌は僕の覚醒を確認すると、問うてきた。
「お忘れ物は、回収できましたか?」
「ええ、無事に。」
そう告げると、車掌は微笑み、車掌室に戻っていった。
「まもなく、終点、終点です。」
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