海底譚

 沈む、沈む、沈む。決して這い上がれないところへと、沈む、沈む。


 私はどこにいる?ここにいる?呼吸もままならない。地上は彼方へ。月明りが遠のく。身体は黒水に溶ける。浮力は私の身体を支えきれずに、諦めて失せていく。


 魚たちが私にささやく。あなたはどこへ行くのと。わからない。私にもわからない。私はどこから来て、どこへ行くのだろう。魚たちは私がはっきりした答えを提示できないのを察すると、嘲笑うかのように私の周りを遊泳し、泡になって消えた。


 いつの間にか、身体の降下が止まる。だんだんと暗闇に慣れてきた目で辺りを見渡す。ああ、そうか。ここが果てか。最果てか。何もない、地獄のように何もない。私の足は汚泥に囚われている。私はきっとこの泥になる。嫌だ。それは嫌だ。――なんで?なんで嫌なの?私は何かになりたかったんじゃないの?それじゃだめなの?何もかもがわからなくなって、走ろうとするも、黒水が抗ってくる。募る苛立ちが、私を意地にさせる。


 もがいて、もがいて、果て無き泥野を進む。度々、泥に埋もれた鮟鱇あんこううずくまって、私を睨み付けてくる。俺の住処を荒らすなと、私を脅迫する。私の行くところは、私の居場所は、どこなのだろう。少なくともそれは、光に満ちた地上でもなく、闇に満ちたここでもないのだ。じゃあ、私の場所はいったい.......この先にあったなら、どんなに幸せなことだろうか。


 苦しみ足掻き疲れ切った私を迎い入れたのは、もっとずっと深い、闇だった。もっと、もっと、ここより深い、闇。ああ、そうか。ここは底ですらなかったのか。今から私が落ちるこの先が、本当の底だ。そこが、私の行き先で、居場所だ。


 また、落ちる、落ちる。久遠の闇が、私を冷たく歓迎する。落ちる、堕ちる。もう、本当に戻れない。一方通行のエスカレーターがたまらなく心地いい。ああ、そうだ。この闇が、この黒水が、私だ。そうに違いない。私は、こんなにも凶悪なのだ。有象無象、全部呑み込んでしまえ。過去も未来も要らない。あるのは今だけでいい。


 再び、降下が止まる。やはり、広がるのは無限の泥野。ここが、私の場所?醜い海鼠なまこたちが、私を暖かく歓迎する。その身を泥に染められた彼らは、私を誘う。こっちにおいでよ。――私は、お前らと同じ?そんなにも、汚らわしかったの、私は。嫌だ、嫌だ、嫌だ。私は、闇であって、泥ではない。断じて、お前らと同じではないのだ。そうに違いない。ここは、私の場所ではない!


 近くにいた海鼠を、足で踏みつぶした。ああ、何をする。よくも俺の兄弟を。この人でなしめ。出ていけ。出ていけ。お前の場所は、ここではない!


 ああ、そうだ。私の場所は、こんなところではない。言われなくとも、出ていってやるさ。さよなら、醜き住人たち。


 懸命に走る。でもやはりそれは叶わなくて、必死にもがく。絶対に、絶対に見つけてやる。私の場所を。


 絶対に、絶対に、絶対に.......意志に反して、私の身体は限界だった。なんだ、もうへばったのか、情けない。所詮その程度だったのか。結局、お前は俺らと同じなんだよ。醜い者どうし、仲良くやろうぜ。最後の力を振り絞って、煩く煽ってくる海鼠を握り潰す。ああ、またやった。本当にろくでもない奴だ。脳裏に非難の声を残し、私の意識は彼方へ。もはや、快い水流にさえ、抗うことができなかった。




 子供の頃、母と見た銀世界。心躍った銀世界。しんしんと降る雪は、私に非日常を演出するのに充分だった。あの頃、確かに実感できた。私は愛されている、必要とされていると。


 俯いて倒れていた私の手のひらには、雪の結晶が乗っていた。驚いて天を仰ぐと、降っていた。手のひらに乗っていたそれが。あの頃見たのと同じ銀世界だった。身体を包む凍えるような冷たさも、嫉妬で狂いそうになる美しさも、同じ。マリンスノーといったか。深い海の底、本当の海の底で降り積もる、死した生命の雪。辺りに醜い海鼠たちはいない。どうやら私は流されてきたらしい。神様は、まだ私を見捨ててはいなかったようだ。ありがとう、私をここに来させてくれて。


  ああ、そうだ。この雪が、私のなりたかったものだ。どんなに劣った生命も、どんなに優れた生命も、死して、今こうして等しく私を魅了している。死んでしまえば、皆同じだ。死した私を、誰かが愛してくれる。ああ、なんて救われる話なのだろう。ここが、私の行き先だ。ここが、私の場所だ。私だけの場所なんだ。私は夢見心地のまま銀世界に身を委ね、孤独にもう一度まぶたを閉じた。








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