人の子と山椒魚

 陽が天に遊ぶ昼下がり。 人里離れた山奥の清流に突如として訪れた恐怖に僕は、岩陰に縮こもりただただ怯えていた。


 清流に足を浸けているのは人の子だった。片手に網を携え、ちゃぷちゃぷと、一歩一歩進む。目を見張り、何かを探しながら。


 その双眸に、岩の苔上でくつろぐ僕の仲間の姿が映る。人の子は、ゆったりと忍び近づくと、迅速に網を下ろした。仲間はすんでのところで網の淵から避けると、僕と同じように岩陰に身を潜めた。人の子は苦渋を顔に浮かべ、ばしゃばしゃと無遠慮にしぶきを立てながら去っていった。


 僕らは虫を捕る。食をつなぐために、生をつなぐために。しかし、人の子は何故僕らを捕るのだろう。少なくとも人の子が生をつなぐために必要なことではないのだと、無知なりに理解していた。


 びちゃんと、再び水音がした。また人の子が近づいてくる。岩上に佇んでいた僕の仲間は反応が遅れ、強靭な網の中に囚われてしまう。


 人の子は笑っていた。僕の仲間を捕らえて、楽しそうに、嬉しそうに、笑っていた。


「お父さん、山椒魚捕まえたよ。」

「おお、凄いじゃあないか。」

「この子も一匹で寂しいよね。もっと捕まえなきゃ。」


 そう言い人の子は、また流れに足を浸ける。どうやら僕の仲間を生かすつもりらしい。いや、そんなことはどうでもいい。僕の意識は、人の子がまだ狩りを続けるということに向いていた。


 ばしゃ、ばしゃと。何度も水音が近づいてくる。今度は僕の別の仲間が、不幸にも人の子の足元を泳いでいた。人の子はそれを見逃さなかった。


「お父さん、また捕まえたよ。」

「そうか、大したもんだな。」


 人の子の左手に提げられたプラスチックケースの中に、先ほど捕らわれた僕の仲間がいた。彼はこの上なく悲痛な顔をしていた。いや、そんなことはどうでもいい。そこに、たった今捕まえられた仲間が放られる。彼らは逃げ出そうと力の限り暴れていた。いや、そのこともどうでもいい。問題はまた、人の子が僕に近づいてくることだった。


 とうとう、僕と人の子の目が合った。僕は震え上がった。網が岩の隙間に入ってくる。近づいてくる異物に耐えかね、岩陰から出た。そのまま泳ぎ逃げようと試みるが、迫り来る恐怖には敵わず、気づいた時には、僕の体を包むのは清水ではなく、繊維と空気になっていた。網目の隙間から見下ろす渓流はとても綺麗で、くっきりと目に焼き付いた。僕が去った後も、ずっとずっと、変わらず綺麗であり続けるんだと思った。


 透明な箱の中で、僕は仲間と再会を果たした。彼らは僕の登場にも構わず、この箱の隅で、あるはずもない先に向かって泳ぎ続け、頭をぶつけていた。


「お父さん、山椒魚はどうやって飼うの?何を食べるの?」

「そうだな、適当に水を張って、金魚の餌でもあげておけばいいんじゃないか。」

「うん、きっとそうだね。」

「かわいがってやるんだぞ。」

「うん。きっと長生きさせてやる。」


 人間のやり取りを聞き、僕の仲間は呆然としていた。もうこの箱の中で泳ぎもがく者はいない。僕らは直感的にわかっていた。もうあの清流に浸かることも、あの苔上で陽を浴びることも、あの岩陰でまどろむこともないということを。僕らはこの透明な監獄の中で、短い生を謳歌することしか許されていない。人の子は箱を顔の真横まで持ち上げ、愛おしそうに僕らを眺める。光の屈折のせいか、その顔は僕らを嘲笑っているように見えて仕方がなかった。

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