エピローグ(ⅱ)

 終わりのない時の中で、人は何を思うだろうか。答えは、「思うことが無くなる」、だ。久遠の時を経て、自分は思考という思考を修了した。森羅万象に対して、自分なりの答えを出したということであるが、その答えの正当性について問うのは野暮なものである。なぜなら正当性なんてたった一人の人間の物差しでしかないのだから。そのものさしの正当性を測るためにはまた別の物差しを使う他なく、結局のところ、たった一本の物差しでさえも、我々は正しさを保証することなどできないのだ。


 また一人、人影が見えた。彼は、彼女は、一体何人目の客人だろう。測る術もないのに、そう独りちらずにはいられないのは、久遠の時のいたずらだろうか。


「久しぶりですね、終焉さん。覚えていますか?私のこと。」


「あぁ勿論。覚えているとも。」


「その節は、お世話になりました。」


「いやいや、俺は別に世話した覚えはないよ。」


「減らず口は相変わらずですね。」


 彼女は、今度こそ本当の死を前にしているというのに、あくまで楽しげに、微笑んだ。それは、触れたら壊れてしまいそうな、そんな笑みだった。


「あれから、君は、君を見つけられたかい?」


彼女は、俯いてしばし黙考したのち、吸い込まれそうな黒い瞳でこちらを見つめ、その落ち着いた口調は決して崩さずに、答えた。


「残念ながら、確信はありません。でも、あぁ、これがきっと私なんだなって、思う瞬間には何度か巡り逢うことができました。」


「そうかい。それは何よりだ。」


「私、気づいたんです。私を見つけてくれるのは、何も私だけじゃないと。私以外の人だってきっと私を見つけてくれました。」


二十余年前の、迷い憂いに囚われた彼女は、もういない。彼女の言葉は、自信と含蓄に満ちていて、人を惹きつけるだけの何かがあった。


「そうか、君以外の人間が君を見つけてくれたか。それは、きっととても恵まれたことだよ。」


「はい、心から、そう思います。私は、恵まれていました。こうして、またここへ来た今も尚、そう思います。」


 そう言う彼女は、今度こそ間違いなく、望んでここに来た訳ではないはずで。彼女はこちらの表情から思察を汲んだのか、ばつの悪そうに苦笑いして、告白した。




「病を患ってしまったんです。痛くて苦しくて、それでも生きたくて必死でした。もうすぐ私の命は途絶えてしまうことでしょうね。それが、ここに来て、あなたと再会した意味だと思います。」


「そうか。月並みな言葉をかけるようで悪いが、若くして病魔に巣食われるとは、残念だったね。」


「はい、本当に。でも、これもまた、宿命なのかもしれません。私はかつて死にたがっていたのですから、今更長く生きたいなんて、虫のよすぎる話ですよ。」


 達観し、死への恐怖など微塵も感じさせないその語りは、胸が焼けるほど切なく、それでいて立派に聞こえた。


「変わったね、本当に。あの時とは見違えるようだよ。」


ふいに自分から出たのは、そんな薄っぺらい賞賛だった。久遠の時を過ごした今も尚、気の利いた文言を即座に並べるのは自分にとって難しいようだった。


「君は、自分の人生をどう評価する?」



「そうですね。生前、何回か考えたことはあります。自分の人生に、点数をつけるなら、何点だろうって。でも、答えは出ませんでした。それもそのはずです。たった今、わかったたんです。私の人生の価値はきっと今、まさにこの瞬間に、やっと決まるんだなって。生きているうちに、自分の人生の価値なんてわかるはずないじゃないですか。だって、その先にどんな幸福が、苦難が、待ち受けているのか、知る術がないですから。」


「それもそうだね。それで、君は君の人生に、何点の評価をつけるんだい?」


「百点です。」


「ほう、それはいい。詳しく訊いていいかい?」


「はい。私には、あなたと会ってから一つ人生の目標ができました。それは、幸せの絶頂で死ぬということです。最期に意識が途切れる寸前、私は、家族に囲まれて、こう思いました。『あぁ、これから死ぬんだな。良かった。』って。家族の目は、涙で潤んでいました。それはもう、ひどい顔でした。でも、それがこの上なく、嬉しかったんです。私の死を悲しんでくれる人がいることが、たまらなく、幸せだったんです。私は、人生の目標を達成しました。だから百点です。」


「そうか、それは何よりだ。」


 彼女の幸せの正当性なんて問題ではない。残された人々に対して無配慮だとか、独りよがりだとか、そんなことはこの際どうでもいい。大切なのは、彼女が、凄く満足げに、眼前に立っているということだけだった。彼女の物差しは、彼女の人生をしっかりと捉えて、責務を果たしていた。




「そろそろ時間が来たようだ。最後にもう一度、問うよ。あの時と同じようにね。」



「はい、どうぞ。」







「悔いはないかい?」







「はい、ありません。」




 そう答える彼女は、満開の花の如く、儚く、ただただ綺麗に、笑っていたのだった。



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