第14話

 宮部は愕然とした。自分の通夜が営まれているのだ。何がどうなっているのかまったく理解ができなくて気が狂いそうになった。

目に入ったのは、玄関の戸が開け放たれ、喪服を着て忙しそうに動き廻る男女の姿で、それは通夜ならどこにでもある光景だった。だが、宮部にはまだ自分のための儀式であるという実感などない。

その光景がスライド写真のように目の前を過ぎようとした時、茫々とした目の中に目頭をハンカチで押さえている妻の姿が見えた。

閃光に映されたようなあっと言う間の出来事に慌てた宮部は座席を立ち、運転手にバスを停めるよう強い口調で言った。

「停めてくれ!」

「そうはいきません。もうこのバスを二度と停めることはできないのです。もうおわかりのように、あなたはこの世に別れを告げたのです。あなたの家族は最後の別離のために悲しみをこらえて準備をしています。これであなたのご家族が夢に出て来られないわけがおわかりでしょ? まだあなたは幸せなほうです。最後に家族の姿が見られただけでも――」

運転手は相変わらず抑揚のない、ゆったりとした口調で言う。

「――いいからここで降ろしてくれ、頼む!」

「あなたの気持はよくわかります。でも残念ですが、もうあなたは後戻りができません。いつかあなたの親友である大野木さんが口にしたことがありますよね、『沈黙の警告』のことを……」

「沈黙の警告?」

「そうです。いみじくもあの晩――そう土田さんの通夜の日です。大野木さんは亡くなられた土田さんに替わって生命(いのち)の大切さをあなたに話しましたよね。あれは土田さんがあなたに遺した警告だったのです。それを聞き流してしまった結果がこうなったのです」

 宮部は運転手の斜め後ろの席にへたへたと坐り込み、肩を落として漫然とバスの前方を見つづけた。

宮部の目からは止めどなく涙が流れ出た。

躰が小刻みに震えて押さえきれない。胸が締めつけられる思いにたまらず目を瞑ると、泪で歪んだ喪服姿の妻の顔や、やっと大人になりかけた英人の顔が浮かんできた。そして次には、とうに八十を過ぎ、足が不自由になった母親のちからない後ろ姿がいたたまれなかった。想うとまたしても泪が溢れてきた。


運転手はただ前方を凝視したままハンドルを握りつづけている。

気がつくと外は雨が降りはじめ、曇りかけた窓に雨粒が白く光っている。

暗く閉ざされた闇のなかに山並みの黒い翳がシルエットのように見え隠れする。

バスはやがて山道に差しかかり、盤屈とした道を縫うように走りつづけると、前方に大きなトンネルが口を開けて待ち構えているのが見えた。

闇のなかをバスは呑み込まれるようにしてトンネルに入ってゆく。

宮部はちからなく出口の見えないトンネルの先を見つづけた。すると、どういうわけかいままで得体の知れない不安と恐怖が嘘のように霧散し、頭のなかにあった夾雑物がことごとく消え去っていた。

冷静な気持になって前方を見ると、そこにはただ闇に突き刺さるヘッドライトの光芒だけが白く光っていた――。

                  (了) 

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