第13話

 時々呻くような宮部の声が聞こえたのか、バスの運転手は気安く話しかけてきた。

「随分お疲れのようですね。躰はいたわってやらないとだめですよ」

以前どこかで聞き憶えのある声だった。

「まるで狐につままれているような気分だ。こんな夢はいままでに見たことがない」

宮部は朦朧とした目を瞬(しばた)かせて言った。まだ頭の両側が熱があるようにぼうっと熱い。ひょっとして医者にもらった薬のせいなのだろうか。それともママがくれた栄養剤の影響なのだろうか。あるいは二種類の薬の相乗効果なのだろうか――そんな思いがぼんやりとした頭の中で渦のようにぐるぐると廻った。

「あなたは時間の感覚がなくなっているのにお気づきですか。まだ、会社帰りにどこかで飲んでの帰宅途中だとお思いではないですか」

「――」

宮部には運転手のいっている意味が理解できなかった。

「あなたは、幽体離脱という言葉をごぞんじでしょうか」

「幽体離脱? 聞いたことがあるようなないような……」

「まあ、簡単に言うと、精神と肉体とが別々になることです」

「――」

「難しいことなのでよく理解できないと思いますが、もうすぐ私のいっていることがわかりますよ。申し遅れましたが、このバスはあなた専用です。ほかの客が乗って来ることはありません。どうぞゆっくりしてください」

運転手は前を向いたまま低い声で言った。

「私、専用?」

宮部にはこの運転手の言わんとすることがまったく理解できなかった。

「そうです」

「そんなバカな……」

「いままであなたの夢に登場した人は、あなたがこの世に生を受けて以来、あなたに関わりあった人たちで、あなたが心の中で絶えず気にかけている人たちばかりです」

「確かに、いままですべて気になっている人たちばかりが現れた。だがもっとも気になる私の母親や家内、あるいは子供の顔が出てこなかったのはどうしてなのだ?」

「それは無理です。あなたのご家族ついてですが、今夜とても忙しくてここに顔を出すことができないのです」

「忙しい? 忙しいのと夢とは何の関係もないじゃないか」

宮部はつい語気が荒くなった。

「それは、もうしばらくしたらわかります」

相変わらず運転手は前を向いたままで、抑揚のない調子で言う。

話が途切れてしまい、宮部は仕方なく窓の外を見た。だがそこには漆黒の闇があるだけで、いつも見える民家の灯りさえ見えない。しばらくすると、窓の外が薄っすらと明るくなり、海らしきものが見えはじめた。

しかし、どう考えても家に帰る途中に海などない。脳髄の結束が乱れたままになっている。やがてどこかで見たことのある景色に思えてきた。しばらく考えたあと、やがてそれが北海道の海岸であることに気がついた。たまたまテレビの旅番組で見ていて印象に残った場所。仕事が忙しくて妻を旅行にも連れて行けなかった宮部が、常々もし時間ができたら妻と一緒に旅行を愉しもうと思っていた風景であることに気づいた。 

バスは海岸線をなぞるように一定の速度で走る。窓からの海はただ黝く鏡のように静かで、とめどなくながい境界線の上にのしかかる仄蒼い空は、見事に神秘の色をたたえている。

屹立した岬が見えはじめ、それはまるで大きな男が芒洋とした海を呑みこまんばかりの姿に見えた。バスが湾の反対側に差しかかると、砂浜が弦(つる)を外した弓のように美しい弧を描いている。

窓からの景色は、やがて車窓のふちに追いやられるようにして消えて行った。


そしてバスは見覚えのある景色の道路に戻った。

周囲に自動車の姿は一台もない。沿線の灯りはことごとく消され、ただ点々と道路を部分的に照らす照明だけが気怠い光を投げている。

下車するバス停が近づいたので、宮部は降車を報せるボタンを押そうと手を伸ばした。

「ボタンは押さなくて結構です。先ほどもいいましたように、このバスはあなた専用のバスですから」

ルームミラーを見ていたのか、透かさず運転手が言った。

そんなことがあるのか、と思いながら半信半疑で腕を引っ込めた。 

バスはそれからしばらく走ると、本線から脇道にそれ、バス同士がやっと擦れ違えるぐらいの狭い道路をすすんだ。宮部の家の方角である。右側は民家が点在し、左手は畑がつづいている。

宮部が頭の位置をずらして前方を見やると、道の先が少し明るくなっているのが見えた。目を凝らすと、どうやら自分の家のあたりのようだ。数人の人影が慌ただしく動き廻り、自動車も数台停まっている。何かあったのだろうか、と宮部は小首を捻った。いままで欠片もなかった心配ごとが急に堅い殻を破るようにして頭をもたげて来た。

家までがひどく長い距離に思えた。バスが家の前に差しかかった時、宮部の目に飛び込んで来たのは、細長い白木の板に書かれた文字だった。


『故 宮部信夫 儀 通夜式場』

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