第12話

 なぜここに――夢を見ているとしか思えなかった。

 恐る恐るそっと振り返って見ると、こっちにまったく気づかないふたりは、手をつないでバスのいちばんうしろの席に腰掛け、足をぶらぶらさせながら顔を見合わせて愉しそうに話をしている。

頭の中が朦朧としてきて、まだ「ひさご」で飲んでるような錯覚に陥った。

しばらくすると、ふたたびバスが停留所に停まった。

今度乗って来たのは中学生の男の子で、宮部はその中学生の顔を見て、またもや心臓が停まりそうになった。

中学三年の時に一緒にわるさをして遊んでいた山口昇だ。間違いない。はっきりと顔を憶えている。昇とは中学の時に空き家に忍び込み、読みくたびれてぼろぼろになったエロ本の黒く塗り潰された部分を頭をぶつけるようにして擦ったり、昇が手に入れたハッカ煙草を盗み喫みしたり、どこから持って来たのか、ポケットウイスキーの瓶を持ち込み、瓶のフタにそそいだウィスキーを一気に飲み、むせて咽喉が妬けついたのをいまでも憶えている。

そんな昇がどうしてまたこんな遅くにバスに乗って来るのだろう。頭の中が白い靄に支配され、考えれば考えるほどとてつもなく深い海の底に引き込まれて行くようだった。

バスはスピードを緩めると灯りのないバス停に停まった。

今度乗り込んで来たのは若い男女の四人づれで、えらく賑やかな連中だった。

(何なんだ、このバスは。どうしてこいつらが――)

宮部はわけがわからなくて気が狂いそうになった。

宮部が目にした四人というのは、大学時代の映画研究部仲間で、よく大学時代にコンパだとか映画の評論だとか言って居酒屋にへばりついて朝方まで飲んだ記憶がある。

彼らは宮部の顔を一瞥すると、話しかけることもなく後部座席に向かう。宮部は思わず声をかけようとした、そのなかにいた吉田幹子に。

吉田幹子とは大学三年の頃、趣味の映画を通して仲良くなり、一年ほど付き合ったが卒業という壁がふたりを遠ざけてしまった。音信不通の状態になったままで現在にいたっている。いま彼女がどこで何をしているかまったくわからない。

胸の中に残されたモヤモヤをどうしてもすっきりさせたかった。ところが、どうやっても咽喉の奥から声が出て来ない。諦めきれない宮部は首を廻して後部を覗う。

するとどうしたことか、いままで乗って来たはずの幼馴染や山口昇の姿がまったく見当たらない。ただ、いま乗って来た四人が最後部の席に坐って雑談を交わしている姿があるだけだった。

どう考えても頭の中の整理がつかない。熱にうなされている時に見る赤と黒の光景が頭のなかで旋回している。――

またバスがスピードを緩めた。

(また停まるのか、一体全体どうなってるんだ)

宮部はわるい夢でも見ているようで、やり場のない苛立ちを覚えている。

(ええッ! どうしておまえたちが――)

 宮部が見たのは、大野木と矢野のふたりだった。

 矢野も大野木と同じ大学からの旧友で、何かあると顔を合わせてよく飲んだ。この前土田が死んだ時にはタイミングが合わなくて顔を見ることが出来なかったので気になっていたところだ。ほかにも仲間がいなくはないが、大野木、矢野、それに土田の三人は特によく気が合った。

(矢野! 矢野!)

 宮部は呼び止めようとするがやはり思うように声を出すことができない。もどかしくて咽喉元を掻きむしる。何とか気づいてもらおうと腕を挙げてしきりに振って見せるのだが、一向に気づく様子がない。

(どうしてだ? なぜこんなに近くで合図を送っているのに知らん顔をしている。頼むから俺に気づいてくれ!)

 宮部はたまらず席を立って矢野の腕を掴もうとしたが、別にシートベルトをしているわけではないのに、思うように躰を動かすことができなかった。

 仕方なくふたりの背中をもどかしいまま見送る。

 あれは十年ほど前のことになる。夏休みに子供をどこかにつれて行ってやろうと考えていた宮部が、会社の同僚から情報を得てある川の上流にある河原に大野木、矢野、土田の家族をバーベキューに誘った。恰度同じような年頃の子供たちがあることもあって、反対する者はいなかった。

 その場所は歴としたキャンプ場ではなかったが、バーベキューするには充分なくらいの河原があった。宮部たちのほかにも二家族が遊びに来ていた。

 山峡を流れる川の水はどこまでも透明で、川底にある石のひとつひとつが手に取るように見える美しい川だった。そして目が洗われる景色に誰もが感嘆の声を洩らした。

 存分に風景を満足した宮部たち四家族は、早速準備に取りかかる。男連中はコンロを組み立てる者と車から材料を搬ぶ者に別れて作業をしている。女房連中は顔を突合せてお喋りをしながら下拵えの手を動かしている。

 子供の数は矢野のところだけがふたりで、あとはひとりずつの合計五人いた。その子供たちは流れに向かって小石を投げたり、膝付近まで水に浸かって小魚を探したりして思う存分愉しんでいた。それを見る限りどこまでものどかな光景としか言いようがなかった。

 悲劇は突然起きた。山峡に黄色い悲鳴が響いた。矢野の上の男の子が川底の岩で滑って流されたのだ。子供たちが父親、母親に助けを求めて大声を上げる。慌てて父親たちが水辺に駆け寄った時にはすでに流されたあとで、かろうじて水面から出した腕が見える程度だった。矢野夫婦は川に流されている子供を追って足場のわるい河原を走った。

 矢野の子供は一キロ下流で溺死体となって見つかった。


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