第11話

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 ママが用を済ませて戻って来た。

 宮部の寝ている姿を見ると、あまりに気持よさそうに居眠りをしていたので、そのままにしてカウンターに入って洗い物をはじめた。

三十分ほどしてからママは宮部の肩を軽く揺すった。

「宮部ちゃん、そんなとこでいつまでも寝てると風邪ひくわよ」

「すまん、すまん。あんまり眠かったもんだから。ママに迷惑かけてしまった」

「そんなことはいいけど、宮部ちゃん大丈夫?」

「大丈夫さ。あっ、もうこんな時間か」

 時間は十一時十分を指している。

「そろそろ帰るとするか」

背広の内ポケットに手を入れ、財布を取り出しながら言った。

「近いうちにまた来てね。たまには宮部ちゃんの顔が見たいから」

「わかった。年内にもう一度ママの顔を見に来るよ」

そういって勘定を済まして椅子から立ち上がった宮部は、足が縺れてよろめいた。

「ほんとに大丈夫?」

ママは心配そうな顔になって訊く。

「大丈夫だって」

見送ると言うママを制して店を出た宮部は、ひとつ身震いをするとおぼつかない足取りで冷たい風の舞う道を駅に向かった。

小鳥が羽ばたいたあとと思えるくらいに、白いものがふわりふわりと寒空に舞いはじめた。

宮部の家まではここから電車に乗って七つ目の駅で下車をし、そこからバスで三十分ほどかかる。電車は忘年会の帰りなのだろう、どの車輛も結構混んでいた。案の定あちこちから酒臭い臭いが漂って来る。宮部は自分のことを棚に上げ、他人の吐く息にえらく神経質になっている。

席がひとつ空き、崩れるように坐った宮部はすぐに目を閉じ、早く駅に着くことを願った。降りる駅の二つ手前で目を開けると、いままで乗っていた乗客の姿がほとんど見えなくなり、空席が多くなっていた。

(そう言えば、この前大野木と飲んだ帰りの電車で奇妙な光景を窓ガラスに見た。どうやら今夜はなさそうだな)

見廻すと、気持よさそうに居眠りをしているサラリーマン、メールを打っているのか携帯から目を離さない女子大生、無心に本を読んでいるOL、そして仏像のように目を瞑ってヘッドホンで音楽を聴いている若者の数人だけだった。

電車が駅に着き、改札を出ると最終のバスに乗り遅れないようにバス停に急ぐ。

腕時計を見ると、まだ少し時間があった。ほっとしながら胸のポケットから煙草を取り出すと、胸の奥に深く吸い込んだ。吐き出された烟が瞬く間に暗い闇に消されてゆく。

木枯らしにせかされたプラタナスの枯葉が乾いた音を伴いながら渦を拵えて足許を過ぎて行った。

意外にもほかの客の姿はなかった。

宮部は小首を傾げながら、どこかいつもと違うなと思いながら煙草の火を靴で揉み消した。しばらくすると、バスが大きな車体を揺らしながら近づいて来た。思わず行き先に見をやる。

電光表示は『臨時』となっていた。

こんな時間に臨時ってどういうことだと思いながらこのバスじゃないと諦めかけた時、バスの前の扉が開き、「お待たせしました」と、運転手が覗くようにして言った。

「このバスは池田町には行かないでしょ?」

宮部は訝しげな顔になって訊く。

「大丈夫ですよ」 

宮部はそう言われて半信半疑で乗車口のステップに足をかけ、後ろを振り向いたがほかの乗客は誰ひとりとしていなかった。バスに乗り込むと、行き先表示が『臨時』となっていたことを運転手に伝える。運転手は事務的な口調で間違いないと言った。

なぜか車内に微かな伽羅の香りが漂っていた。

宮部は運転手の後ろ、乗車口近くにあるひとり掛けの席に腰を降ろした。いつもの席だ。バスはエア音を残してドアを閉めると、緩やかに動き出した。

時間が遅いせいで街の灯りもまばらになり、師走の闇をいっそう暗く感じさせた。路面の表情を拾う振動が座席に伝わって来るのと同時に、エンジンの振動が背中に心地よい刺激を与えてくれた。

宮部はこれから優に三十分はかかると思い、酔い疲れた躰を背凭れに預けて目を瞑った。

――どれくらい走っただろう、ドアが開くブザーの音で目を醒ます。

目を瞬(しばたた)かせて盗むように見ると、子供がふたり乗り込んで来た。

黄色い帽子に水色のスモックを着て、肩から斜めにバッグをかけている男の子と女の子。こんな時間になぜ幼稚園児が、それも子供たちだけで乗って来たのだろう。怪訝な面持ちで子供たちの顔を見ると、どこか見覚えのあるような顔だった。

しかしすぐには想い出すことができない。子供たちが宮部のほうを見ながら通り過ぎようとした時、宮部は鋭い刃物で胸をひと突きされたような衝撃を受けた。

そのふたりの幼稚園児は、宮部が通っていた幼稚園の友達だったのだ。

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