第10話
ママは返事をしながらその場を離れて行った。
宮部は猪口に残った酒を飲み干すと、またしても一、二度軽く首を廻し、カウンターに片肘をついた。手のひらに顎を載せて目を瞑る。
躰を壊したら……と、ママが言った何気ない言葉が耳朶に焼きついて離れない。
(やはり明日もう一度病院に行って診てもらうことにしよう)
宮部はふと思い出して、ポケットから医者の薬を二錠手のひらに載せると、弾みをつけるようにして口に含んだあと、グラスに少し残っていたビールで嚥み下した。
確かにママの言うとおりだった。この先、定年までの間いまと同じように身を粉にして働きつづけるのだろうか、それともゴール寸前で自分の人生に終止符を打たされることになるのだろうか、不安という姿の見えない巨大な翳りが頭のなかを雨雲のように去来する。――
客が店を出て行くと、あと片づけを済ませてママは再び宮部の隣りに腰を降ろした。
「いま何時だ」
ひとりごちながら宮部は左の袖を捲って腕時計を覗きこんだ。
時計は十時五分を指している。
「十時か……」ぽつりと言った。
「まだいいんでしょ」
ママは久し振りの宮部とゆっくり飲みたいと思ったのか、色っぽい声で引き止める。
「ああ。久しぶりだからな」
「きょうは早じまいにするわ。久しぶりに宮部ちゃん来てくれたんだもん。……タカちゃん、もういいわ、あがってェ」
ママは若い板前にそう言うと、入り口の戸を開けて暖簾をしまい込んだ。
板前が帰って、店はふたりだけになった。
「ツマミがないわね。ちょっと待ってて、いま目刺しでも焼くから」
しばらくすると、香ばしい匂いが鼻先を掠め、やがて五匹ほど小ぶりの目刺しの載った皿と銚子が搬ばれて来た。
「熱いとこ、おひとつどうぞ」
ママは冗談めかして言うと、小さな音を立てながら酒をついだ。
宮部は猪口を置き、ママに酌をする。その時、何を思ったかママの肩に手を廻した。
「だめよ宮部ちゃん。ほんとにきょうはおかしいわね。いつもの宮部ちゃんじゃないわ」
ママは笑みを洩らしながら軽く拒んだ。
「ごめん。ほんと、きょうはどうかしてるよな、俺」
宮部は手を引っ込めながら言った。
「ママ、煙草ある?」
「ええ。マイルドセブンでよかったわよね」
「ああ」
ママは煙草を手にして宮部のところに戻ると、
「宮部ちゃん、これ飲んで見る?」
意味ありげな笑みを浮かべて手のひらを開いた。小さなガラスの容器に黄色い錠剤が半分ほど入っていた。
「何、これ」
「栄養剤よ。私も疲れた時に時々お世話になるの。結構効くみたい」
「ふうーん。騙されたと思って飲んでみるか」
「ちょっと待って、いまお水持って来るから」
宮部は薦められるままに黄色い錠剤を三粒口に入れた。
「本当に効き目があるのか?」
宮部は疑わしい目でママの顔を見る。
「いいじゃない、気は持ちようって言うから」
「プラセボ効果ってやつか」
「何? そのプラセボ効果って」
ママは小首を傾げて宮部の顔を覗き込む。
「プラセボっていうのは、医者が患者に乳製品から拵えた偽の薬を、この薬はすごく効果があるから、これを飲んだらすぐによくなります、と患者に言うわけだ。すると患者はただの乳製品とは知らずに、本当の薬だと思って服用するわけさ。すると嘘のように病気が回復するらしいんだ。語源はラテン語で『喜ばせる』っていう意味があるらしい」
「ふうん、そうなんだ。でも結構そういうのってあるみたいよ」
煙草の封をきって一本抜き出し、宮部に勧めると同時にライターに火を点ける。
「私も一本もらっていい?」
ママは細い指に上品に煙草を挟み、カウンターの中に烟を吐いた。
烟は天井に押しやられると、白い絹の幕を拵えてたゆたった。
「この前はわるかったね」
猪口を手にしたまま宮部は呟くように言った。
「何が?」
「コンペだよ、この店の」
「ああ、そういえば宮部ちゃん来られなかったわね。いいわよ、気にしないで」
ママはお酌をしながら言った。
「最近調子はどう?」
宮部は左手のこぶしに右手を被せて言った。
「ぜんぜんだめ。今度宮部ちゃんに教えてもらおうかしら」
「いいよ、いつでも。ママのためなら会社休んじゃうから……」
「またまた、口が上手いんだから」
二、三杯飲むと、ママは宮部の前に置かれた空の器を片づけながら、「ちょっとごめんなさいね」といって席を離れた。
ママが席を離れた時、前にも増して硬度な鋼を打ち込まれたような激痛が首のうしろから脳髄にかけて突き上げた。
宮部はウッと声を洩らしカウンターに突っ伏した。
その瞬間、脳裡が映画館の銀幕のように真っ白になり、やがてそれに淡い色彩が散りばめられると、目蓋の裏側に妻や子供の顔が浮かび上がり、瞬く間に消え去った。
すると、どういうわけか、突然いままで頭部を桎梏していた痛みが嘘のようになくなり、錘を外したようにすうっと楽になった。
宮部はそのまま軽い眠りに身を落とした。――
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