第64話 仲直り

 心配する様な事態では全く無かった!

 こんな事なら、もっと早く白川さんと話せば良かった!


 僕は悩んでいた事が急に馬鹿馬鹿しくなった。自分があまりに滑稽こっけいに思え、僕は思わずクツクツと声を殺して笑い出してしまった。


「高橋君?」


 僕が一人で笑っている事に気づいた白川さんが、驚いて目を丸くする。

 僕は必死に笑いをこらえながら「ゴメン、ゴメンね」と白川さんに笑ってしまった事を謝った。


 良かった!

 僕は白川さんに嫌われていない!


 なんとか笑いは引っ込めたが、今度は嬉しさが僕の体中を駆け巡り、僕は高揚した気分になる。


「僕があんな事を言ったのは、白川さんと一緒に居たかったからだよ」


 僕は白川さんの誤解を解く為にそう言うと、彼女に微笑みかけた。


「! ……私と?」


 僕の言葉を聞いた白川さんは丸くしていた目をさらに見開くと、パチパチと瞬かせる。

 今の僕には白川さんのそんな様子も面白く感じられ、僕はさらに言葉を続ける。


「うん、折角仲良くなれたのにって焦った。あの時、サークルが崩壊しちゃいそうなくらい場の雰囲気が悪くなってたでしょ? 白川さんとはサークルを通じて知り合ったから、サークル活動が無くなってしまったら話も出来なくなっちゃうんじゃないかって、心配になったんだ。それでね、それだけは絶対に嫌だって思って、あんな事を口走っちゃったんだよ。だから前向きとか……そんなんじゃ全然ないんだ」


 僕は頷いて白川さんの言葉に相槌すると、先日の自分の行動の意図について説明した。白川さんに嫌われたわけでは無いと知って安堵した僕は、いつになく饒舌じょうぜつになる。

 白川さんは僕の顔を見つめながら、黙りこくっている。そんな彼女の顔は少し赤い様にも見えるが、薄暗くて正確には判断がつかない。


「だから僕は、残念ながら白川さんが思っているほど向上心の強い人間なんかじゃない」


 そう言って僕は話し終える。そして自らの向上心の無さについて語った事に気恥ずかしさを覚え、白川さんにヘラリと笑ってみせた。


「……高橋君」


 白川さんは放心した様子で僕の名前を口にするが、残念ながらそのリアクションから彼女の気持ちを読み取る事が僕には出来なかった。


 白川さんに僕の言いたい事はしっかり伝わっただろうか?


「白川さんが自分を卑下ひげする様な事は何も無いんだ。だから僕の事を避けたりしないで」


 僕は誤解の無い様に、白川さんに確実に伝えたい事を改めてしっかりと言葉にする。

 すると白川さんは無言のまま、僕の言葉に頷いてくれる。そして彼女はゆっくりとうつむくと少しの間、何事か考え込む。それからおもむろに顔を上げ直すと、口を開いた。


「高橋君、今のって……」


 戸惑った表情でそこまで口にすると、白川さんは言い淀んだ。


 あれ?

 しっかり伝えたつもりだけど、伝わらなかったかな?


「僕を避けないで欲しいって言ったつもりだったんだけど……。解りにくかった?」


 僕は急に不安な気持ちに襲われ、慌てて白川さんに訊き返す。


「それはちゃんと伝わったわ。もう避けたりしない。その事じゃなくて……」


 白川さんはそう僕に応じると、また言い淀む。

 僕は彼女が言いにくそうにする理由が解らず、彼女をポカンと見つめたまま首をひねる。

 するとそんな僕の姿を見た白川さんはプッと吹き出す様に息を吐き、表情を崩すと笑い出した。そして「ううん。何でも無いの。気にしないで」と言って、クスクスと笑いながら首を振った。

 どうやら僕の言動に彼女を可笑しがらせるような事が含まれていたらしいが、僕には何がそんなに可笑しいのか分からなかった。

 だが笑っている白川さんの様子から、彼女の張り詰めた気持ちがほぐれてきた事は、僕にも感じられた。


 今度は白川さんが笑いのツボに入ったらしく、彼女は「ごめんなさい」と苦しそうに言うと、ひとしきり笑った。

 そして息を整えて改めて僕を見ると、何か思い出した事があったようで「そうだ!」と呟くと、ゆっくりと話しだした。


「実は私、高橋君の事を避けてしまっていた理由がもう一つあるの」


 白川さんは少し困った表情をして、そう僕に告げる。


 !

 避けられる理由がまだあるの?


「えぇ? 他にも何かあるの?」


 白川さんの思いもしない発言に、僕は驚き上ずった声で訊き返す。たぶん表情も情けないものになっているだろう。

 すると白川さんは自分の手元に視線を落とすと、恥ずかしそうに口を開く。


「あの日、寺田君の背中をラケットで思いっきり叩く姿を高橋君に見られちゃったでしょ? 恐い女だって思われてるかも……って考えたら、高橋くんの反応を知るのが恐くなっっちゃって……。もう情けないやら、恥ずかしいやらで……」


 白川さんは所々消え入りそうな小さな声になりながら、そう教えてくれた。


「ああッ! あの事!」と僕。


『寺田君! ごめんね!』


 白川さんがそう言って、ハンバーガーを喉に詰まらせた恭平きょうへいの背中を思いっきりテニスラケットで叩く姿が僕の脳裏をよぎる。


「恐いって言うより、あの時の白川さんは格好良かったよ! あの後『笑い事なんかじゃない!』って恭平に言ったのも含めて、すごく格好良かった!」


 僕は天井に視線を移し、恭平が喉を詰まれせた時の事を思い出す。そして白川さんがとった行動について、僕なりの感想を口にする。


 恭平を救ったのは白川さんだ。

 白川さんがいなかったら、どうなっていた事か……。

 それこそ目も当てられない惨状になっていたい違いない。

 そして、その事を僕らに気づかせる言葉をくれたのもまた、白川さんなのだ。

 感謝こそすれ、恐いなんて思いもしなかった。


 僕はそんな事を考えながら話し終えると、天井に向けていた視線を白川さんに戻した。

 だが、そこには予想外の彼女の姿があった。

 白川さんはいつの間にか自分の両手で顔全体をおおい、うずくまる様な体勢になっている。


「し……白川さん? どうしたの?」


 思いがけない彼女の姿を見た僕は、ぎょっとして声をかける。


「自分で話を振っておいてこんな事を言うのは変かもしれないけど、改めて他人ひとからあの時の事を聞かされると……余計に恥ずかしいッ!」


 うずくまった体勢のままで、白川さんが首を振りながら声を絞り出すように言う。もし此処に穴があったら本気で入ろうとするのではないかと思えるくらい、恥ずかしさと後悔を綯交ないまぜにしたようなリアクションだ。

 蹲った体勢を解くことなく、白川さんは尚も話し続ける。


「あの日はすごく勇気を出してメガネを外して……、髪も下ろして……大学に行ったのに……。そんな日にラケットで男の子の背中を思いっきり叩いて、しかも大声で怒っちゃうところを見られちゃうなんて……、何もかもが台無し……」


 そう落ち込んだ口調で言う白川さんは、思いつくままに話している様に僕には見える。頑張って押し殺していた感情が、せきを切って溢れ出したようだ。


 あの時の白川さんを僕は『格好良い』と思った。

 だが恥ずかしそうに落ち込む白川さんの姿を見て、僕は『格好良い』なんて言われても普通の女の子はあまり喜ばないのかもしれないという事に思い至り、言葉の選び方を反省する。


 凛々りりしいの方が良かったかな?


 そんな事を考えながら、僕は白川さんの姿を改めて視界に入れる。


 先程まで蹲っていた白川さんは、両手から少しだけ目が見えるくらい顔を出している。そして彼女は気持ちを落ち着かせようと苦心くしんする様に目を細め、うつろな視線を大水槽に向けていた。


 白川さんは僕には思いも寄らない事で悩んでいたんだな。


 白川さんに避けられて、僕は苦しい思いをした。

 だけど白川さんも僕と同じ様に苦しい気持ちを抱えていたのかもしれない。


 ……そう言えば、白川さんの態度がいつもと違うときは、彼女自身の問題に寄る事が多い気がする。


 白川さんは『大声で怒っちゃうところを見られちゃうなんて……』なんて言っていたが、あれは怒ったと言うよりは恭平を心配しての行動だろう。彼女の父、洋さんの仕事を知ることになったあの日だって、恥ずかしがっていただけだった。

 白川さんは一度だって他人をにくく思って自身の態度を変えた事はない気がする。

 この様な考えに至った僕は、急に白川さんの事をより深く理解できた気がして、今まで以上に彼女の事を愛おしく感じた。


『出会った後で『お互いへの理解を深め合っていく努力』をしていく事が大事だなって感じてるの』


 理解出来たと思っていた遠子さんの言葉が、遠子さんと話した時以上に腑に落ちる。


 愛情や信頼を深めていくというのは、もしかしたらこういう場面の積み重ねなのではないだろうか。

 もしそうなら価値観の違いは、むしろ愛情や信頼を深めていく余地とも言えるのではないか。


 そう考えると僕は、出来るだけ無いほうが良いと思っていた『価値観の違い』すら愛おしく感じ始める。


「高橋くん? 大丈夫?」


 そう僕に問いかける白川さんの声で、僕は我に返った。

 僕が物思いにふけっている間に、白川さんは自分の気持ちに折り合いを付けたらしい。僕のことを心配そうに見てくる彼女の表情は、恭平の一件があったあの日より前に見せてくれていたものと変わらなくなっていた。

 僕は「うん。ちょっと、ぼんやりしてたみたい」と返事をして彼女に笑いかけ、物思いに耽りながら考えていた言葉を白川さんに告げる。


「白川さんの悩みは、いつも白川さんの内側にあるんだね」


 僕がそう言うと、白川さんは一瞬驚いた表情をする。直後、彼女は破顔し「急にどうしたの?」と不思議そうに僕に問いかけ、またクスクスと笑い出す。

 白川さんのそのリアクションから、僕はまた彼女の真意が読み取れなかった。

 だが今の僕は、彼女について分からない事がある事を楽しみと感じられる心境になっていた。

 笑っている白川さんの姿に、僕も彼女と一緒に笑い合いたい気分になってくる。

 僕は「別に」と言って白川さんをはぐらかし、悩みなど無かったかの様に彼女と一緒になってクスクスと笑い出した。

 そうやって笑い合ううち僕は、白川さんといつも通りの関係に戻れたと確信を持って言えるような心境になっていた。

 そして心の落ち着きを取り戻すと共に、此処に来た本来の目的を僕は思い出す。


 そうだ!

 僕らはこの水族館に遊びに来たわけじゃない。

 動画撮影の練習をする為に此処にいるんだった。


 問題を一つ解決した僕は、次の問題の事を考え始めていた。

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