第63話 大水槽の前で

史一ふみかずはどうする?」


 良周よしちか恭平きょうへいに肩車されて喜んでいる芽衣めいちゃんから視線を離すと、僕にたずねた。


「僕は……」


 実を言うと水族館に入る直前と先程の二回、白川さんと一緒に行動する機会を逃してしまい、折角奮い立たせていた気持ちが少ししぼみかけていた。その所為で弱気になっていた僕は、どうすべきか考えあぐねて言葉に詰まる。


「追いかけないのか?」


 良周が白川さんの向かった先にチラリと視線を向けて、唐突にそう言った。


「!」


 思いがけない良周の言葉に、僕は驚きを隠せない。


「ちゃんと話した方が良いよ」


 真剣な面持ちの良周が、僕にだけ聞こえるくらいの小さな声で言葉をくれる。良周は僕と白川さんの状況に気づいていたらしい。


『ちゃんと話をして、お互いを知る努力をしなくちゃ。友人、恋人、家族、仕事仲間。どんな関係だって、これを怠ると長続きしないと思うわ』


 良周の言葉を聞いて、水族館に入る前に聞いた遠子とおこさんの言葉が思い出される。


 そうだ。

 このままじゃ、友人としての関係すら終わってしまう!

 躊躇ためらってはダメだ!


「……そうだね。行って来る!」


 僕は意を決し、良周にそう告げる。そして白川さんの後を追うべく、彼女が歩いて行った方向へ足を向けた。



 僕は展示物には目もくれず、見学順路を白川さんを探して足早に進む。もうかなりの人数の見学客が水族館内に居るはずだが、展示物を見ている見学客の姿はまばらだ。


『きょーへーは、めいをかたぐるまするの! それでイルカショーみるの!』


 不意に芽衣ちゃんの言った言葉が思い出される。

 そう言えば、入館の際にパンフレットと一緒にもらった今日のイベントスケジュールのチラシに、開館の三十分後から本日最初のイルカショーがあると書かれていた。


 見学客の大半はイルカショーを観に行っているのかもしれない。


 僕は歩きながらそう推測する。


 もしかして白川さんもイルカショーの会場にいるのだろうか?

 そうならば順路通りに探しても意味が無いかも。


 そう思い至って不安になった瞬間、目の前に今までいた場所より少し明るく大きな空間が現れ、僕の思考は停止した。

 此処に来るまでに通り過ぎた展示物とは明らかにスケールの違う巨大水槽が右前方に現れ、僕は度肝を抜かれたのだ。

 建物の二階部分の床をもうけないことで上下階の空間を連続させ、横幅だけでなく高さもある大きな水槽だ。僕が立っている場所は大水槽の上部に近い二階にあたる位置で、目の前のスロープを使って一階に降りて行けるらしい。

 僕は大水槽の大きさに圧倒されながらスロープの手すりに近づき、上部からの大水槽の景色を目に焼き付けようと上から下へと視線を動かした。

 大水槽の中にはサメやエイなどの大型海洋生物やイワシの群れ等がのんびりと泳いでいる。そのスケールの大きさから、僕はここがこの水族館の展示物の中で一番の見どころなのではないかと感じた。

 だがイルカショーがもうすぐ始まるからだろうか、一番人気のありそうなこの場所も見学客の姿はまばらだ。一階部分には座って大水槽を眺められるように、スロープを背にずらりとソファーも用意されているが、座って大水槽を眺めている見学客は二組と一人だけだ。

 僕は何気なく、ソファーに座る客に目をやる。


 家族連れが二組、そして一人で居るのは……


 僕は一人で座って大水槽を眺める人物に目を止め、ドキリとする。

 一人で大水槽を見つめているその人は、僕が探していた白川さんだった。


 見つけた!

 白川さんだ!


 僕は白川さんを認識した瞬間、手すりから勢いよく離れる。そして一階へ降りるスロープへと急いで足を向けた。

 他の展示スペースよりは明るいとはいえ、スロープは薄暗い。ゆっくりと歩くぶんには問題ないが、今の僕は急いでいる。スロープに敷かれたカーペットに足を取られそうになりながら、僕は必死でスロープをくだった。その間も白川さんを見失わないように僕は目の端に白川さんを捉え続け、白川さんとの距離をどんどん詰める。

 スロープは白川さんの背後にある。その為、彼女は近づいて来る僕の存在には全く気づいていない様子だ。白川さんは動画撮影をするでもなくぼんやりと大水槽を眺めている。


 スロープを一気にくだりきった僕は、肩で息をする。そして一旦立ち止まると、息を整えた。

 丁度その時、展示スペースの外からどっと歓声が聞こえた。たぶんイルカショーが始まったのだろう。

 その歓声を合図にするかのように大水槽を眺めていた二組の家族連れがソファーから立ち上がり移動を始める。

 息を整える僕の横を二組の家族連れが通り過ぎる。僕は横目で彼らが退出して行くのを見送り、白川さんに視線を戻した。

 白川さんはイルカショーの歓声は気にならないらしく、ソファーに座って大水槽を見つめ続けている。

 大水槽の展示スペースは、図らずも僕と白川さんの二人きりになった。


 息を整え終わった僕は、白川さんの方へ歩みを進めようとして一瞬躊躇ためらう。


 取り付く島も無かったら……どうしよう。


 白川さんに話しかける機会が巡って来たと感じ、彼女に拒絶される事を恐れる気持ちがまた顔をもたげる。


 ひるむな。

 白川さんを理解する努力をするって決めたじゃないか。

 このままじゃ、友達ですらいられないかもしれないんだぞ。

 ここが踏ん張りどころだ!


 僕は白川さんと話をすると決めた時の気持ちを思い出す。そして自分を奮い立たせると、意を決して白川さんに近づく為に歩き出した。


「白川さん!」


 僕は迷いを振り払い、彼女の名前を呼ぶ。

 白川さんは体をビクリとさせ、僕の方に振り向いた。


「……高橋君」


 そう言って白川さんは戸惑った表情をするが、すぐに笑顔を作って「大水槽を撮影に来たの? じゃあ、私は邪魔よね?」と言いながらソファーから立ち上がろうと身をよじる。この場を僕に明け渡し、自分は他へ移動すると言いたいのだろう。


「待って!」


 立ち上がろうとする白川さんに僕はそう言うと、彼女に駆け寄り「白川さんと話がしたいんだ。良いかな?」と白川さんに訊ねた。


「私と?」


 ソファーに座ったまま僕を見上げる白川さんの笑顔に困惑の色がうっすらと浮かぶ。

 僕は彼女の様子には構わずに、頷いて肯定した。そして「駄目かな?」と、もう一度彼女に訊ねた。

 白川さんは考え込むようにゆっくりと自分の足元に視線を落とす。そして黙ったまま、僕から遠ざかるように座る位置をずらした。彼女がそうすることで、僕の側に僕が座れるだけソファーのスペースが空く。どうやら彼女は僕が座れるように場所を空けてくれたようだ。


「ありがとう」


 僕は礼を言って、空いたスペースに腰を下ろす。


「……」


 白川さんは下を向いたまま黙っている。

 僕はそんな彼女を見つめながら、勇気を出して口を開いた。


「僕、白川さんと仲直りがしたいんだ。でも、白川さんが僕の事を避ける理由が分からなくて……。もし僕がした事で怒っているのだったら、何に怒っているのか教えてくれないかな?」


 僕は正直な所を白川さんに打ち明ける。


「そんなッ! 怒ってなんかないわ!」


 僕の言葉を聞いた白川さんは僕の方に勢いよく振り返り、心底驚いた様子でそう言った。


 白川さんは僕に怒っていない?

 そんなはずは無い。

 だって……


「でも、ずっと僕の事を避けていたよね?」


 混乱しながらも僕は彼女に再び問いかける。


「それは……」


 白川さんは僕の質問に言葉を濁して一瞬押し黙る。彼女は折角合っていた視線をまた僕から逸らすと言葉を続けた。


「それは高橋君と顔を合わせ辛くて……」


 白川さんは消え入るような小さな声でそう言った。

 僕は白川さんの言葉に面食らう。


 僕と顔を合わせ辛い?

 怒っていないけど、顔を合わせ辛いってどういう事なんだろう?


「顔を合わせ辛くなるような事なんてあったかな?」


 ……全く見当がつかない。


 緊張していたのも忘れ、僕はキョトンとして首を傾げる。

 そんな僕の様子を見ていた白川さんの表情が自然と少し緩む。

 そして彼女は視線を大水槽に移すと意を決したように真面目な顔をし「寺田君が喉を詰まらせたあの日……」と言って、話しを始めた。


「私、本当に恐くなってしまったの」と白川さん。


 僕はまた首を傾げながら「恐い?」と相槌する。

 すると白川さんは頷いて話を続けた。


「うん。他愛も無い動画を撮るつもりでもあんな事が起こるんだって思ったら、うちのお父さんがやっている動画だって、思わぬ事から大問題になり兼ねないって……。そう思ったらとても恐くなったの。やっぱりYouTube動画なんてやめておいた方が良いんじゃないかって、そんな考えが頭の中をぐるぐる駆け巡って……」


 白川さんが苦しそうに眉を顰め、言葉を切る。


『正直に言うと、YouTubeにあまり良いイメージが無いの』


 白川さんの言葉を聞いて、僕は彼女が動画研究会に入りたいと言ったあの日、こんな事を言っていたのを思い出す。

 彼女は元々、ネット動画が好きでサークルに入ったわけではない。恭平のあんな姿を見て恐ろしくなってしまったのは無理も無い事だ。


 僕は白川さんと初めて話をした日の事に思いを馳せた。

 そんな中、白川さんが「そうしたら」と言いながら大水槽に向けていた顔を僕の方に向け直すと、再び話し出す。


「高橋君がどうやったらサークル活動を続けて行けるかを一生懸命考えて、話してくれて……」


 僕の顔を見ながら、少し気まずそうに白川さんがそう言った。


『これからサークル室で動画撮影をする時は、一人では行わないとか……。最低限のルールを作ろうよ』


 白川さんが言っているのはあの言葉の事だろうか。

 尚も白川さんの話は続く。


「私。高橋君の前向きな言葉を聞いて、後ろ向きな事しか言えない自分がとても恥ずかしくなったの。なんだか高橋君に合わせる顔が無いって思ってしまって、高橋君の事を避けてしまった……」


 そう言うと、白川さんは視線を足元に落とし「ごめんなさい」とすまなそうに言って眉を寄せ、瞳を閉じた。


 ……僕の前向きな言葉。

 まただ。

 白川さんは僕の事をまた良い方に誤解している。


 そう思った僕は、急に体中の力が抜けるのを感じた。

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