第61話 芽衣ちゃん

 遠子とおこさんが一生懸命にメモをとる姿を僕は呆気にとられて眺めている。すると「おーい」という聞き覚えのある声がして、僕はそちらに振り向いた。

 僕が視線を向けた先で、小柄で細身な男と大柄で背の高い男がこちらに向かって手を振っている。正反対の凸凹でこぼこコンビ、雄太ゆうた恭平きょうへいだ。

 僕は彼らに向かって手を上げて応じる。

 丁度その時、今度は背後でパタパタと軽い足音が聞こえて来た。


「ママーッ!」


 可愛らしい声。

 僕は手を下ろし、その声の方へ振り返る。

 すると丁度、しゃがんでメモを取る遠子さんの背中におさげ髪の小さな女の子が飛び乗るところだった。


「グゲェッ」


 おさげ髪の女の子に飛び乗られた遠子さんが、カエルが潰れたような声でうめく。

 遠子さんのリアクションがお気に召したようで、おさげ髪の女の子は遠子さんの背中でキャッキャと楽しそうに笑った。そんな姿を僕が見ていると、その視線に気づいたようで女の子はこちらに目を向けた。

 僕は膝に手をやり、身をかがめる。


芽衣めいちゃん、おはよう」


 おさげ髪の女の子、芽衣ちゃんの目線に合わせて僕は挨拶する。

 僕が声をかけると、芽衣ちゃんは遠子さんの背中に顔を隠す様に擦り付ける。そして、片目だけ見えるくらい顔を僕に向けると「……おはよ」と、小さな声で恥ずかしそうに挨拶を返してくれた。


史一ふみかず、おはよう! 早いね」


 僕は芽衣ちゃんから目を離し、体を起こす。そして声のする方へ向いた。

 のんびりした足取りで良周よしちかがこちらに歩いて来る姿が、僕の目に入る。

 僕は「おはよう。良周たちほどじゃないよ」と良周に声をかける。


「ヨシくーん、芽衣を取ってぇ……」


 しゃがんだ状態で背中に芽衣ちゃんを乗せた遠子さんが、弱弱しい声で良周に助けを求める。今の遠子さんの体勢は、想像以上にキツイのかもしれない。


「オッケー。芽衣、ママが重くて大変だってさ。降りようか」


 そう気軽な調子で言って、良周が芽衣ちゃんをヒョイと持ち上げる。

 すると持ち上げられた瞬間、芽衣ちゃんが発作的に機嫌を悪くした。


「やだやだやだ! ママのせなかがいい! ママのせなかが……」


 顔をクシャっとゆがめて、そこまで言うと何故か芽衣ちゃんは押し黙った。そして、僕の方をジッと見る。いや、正確には僕には目もくれず、僕の背後を凝視しているようだ。

 僕は芽衣ちゃんの行動を疑問に思って後ろを向く。そこには雄太と恭平の姿があった。

 雄太と恭平は、口々に「おはよー」とのんきな調子で僕らに挨拶する。


「……おっきい」


 僕が彼らに挨拶を返していると、僕の背後で心底驚いた調子の芽衣ちゃんの声がする。


 ……大きい?


 僕は改めて目の前の雄太と恭平を見る。

 申し訳ないが雄太はお世辞にも大きいとは言えない。たぶん、芽衣ちゃんが言っているのは恭平の事だろう。


「もしかして、その女の子は良周の娘さん?」と雄太。

「うん。うちの娘。で、こっちでしゃがんでいるのがうちの奥さんの遠子さん」


 良周がそう言って家族を紹介する。

 良周の紹介の後、雄太と恭平、それに遠子さんが挨拶し合う。


「家族連れで来てしまって、ごめんなさいね」


 遠子さんはメモを取り終えたらしく、手提げカバンにメモ帳を仕舞うと立ち上がりながらそう言った。


「いえいえ。全然構いませんよ」


 恭平が笑顔で遠子さんに応じる。そして何かに気づいた様に良周に抱えられた芽衣ちゃんに目を向ける。


「何だかすごく見られてる気がするよ。えっと……、お名前は何て言うのかな?」


 恭平が戸惑いながらも優しく芽衣ちゃんに声を掛ける。

 恭平の言う通り、芽衣ちゃんはジッと恭平を見ている。そして芽衣ちゃんは、小さな右手の内側の三本の指をぎこちなく立てて見せた。


「めいね、さんさい!」


 さっき僕と挨拶した時とは別人の様に、元気良く恭平の質問に答える。


「そうか! ちゃんとお名前と歳が言えてエライね!」


 恭平がそう応じると、芽衣ちゃんは嬉しそうにニカッと笑う。

 どうやら恭平は出会って早々、この小さな女の子に気に入られてしまったようだ。


「パパッ! おりる!」


 芽衣ちゃんはジタバタしながら良周に主張する。良周がそのリクエストに応えて、芽衣ちゃんをゆっくりと降ろす。

 降ろしてもらった芽衣ちゃんは、ちょこちょこと恭平の傍に行くと、彼を見上げ「おっきいねえ」と目を丸くしながら言った。


「そう? 肩車でもしてあげようか?」


 芽衣ちゃんのリアクションに気を良くした恭平がそう言って、良周の方を見る。

 すると良周が「恭平が嫌じゃなければ。芽衣、肩車してもらってみるかい?」と言って、芽衣ちゃんの意向を訊ねる。

 芽衣ちゃんは興奮した様子で良周の言葉にコクコクと頷いた。


「じゃあ、おいで!」


 恭平がそう言って、手を広げる。

 すると嬉しそうに芽衣ちゃんが恭平に近づいて両手を上に上げ、持ち上げやすい体勢をとった。

 恭平が芽衣ちゃんをヒョイと持ち上げ、楽々と肩車してみせる。


「たかぁーい!」


 肩車をされた瞬間、そう言って芽衣ちゃんが大喜びする。


「広場を一回りしようか?」


 恭平がそう提案すると、芽衣ちゃんは「うん!」と元気良く返事をした。


 恭平と芽衣ちゃんは海の友だち広場をのんびりと一周する。

 その間、僕を含めた他の面々は楽しそうに広場を回る二人を見ながら歓談した。そして、心底楽しそうにはしゃぐ芽衣ちゃんを肩車した恭平が僕らの所に帰って来ると、僕らは連れ立って水族館に向かった。


 時刻は午前九時五十分になっていた。


 ◆


 僕たちは水族館への階段を登り、水族館の入り口前に到着した。

 水族館の入り口前は広場になっていて、僕らと同じように水族館の開館を待つ人たちが二、三十人いた。

 僕はその中に白川さんや綾辻さんがいないかと彼女たちの姿を探す。だが、どちらの姿もない。まだ二人とも到着していない様だ。


「きょーへー! かたぐるまー!」


 芽衣ちゃんが恭平にせがむ。

 実は水族館への階段を登る前、嫌がる芽衣ちゃんを無理やり恭平の肩から降ろした。肩車したまま階段を登るのは、流石に危ないと言う話になったからだ。

 だが芽衣ちゃんは、まだ肩車をして欲しい様だ。恭平の前で両手を上にあげ、持ち上げろと彼に要求する。


「もうすぐ水族館が開くよ。水族館の中に入ってからにしようね」


 恭平が諭すようにそう言って、芽衣ちゃんの要求をやんわりと断る。

 恭平の発言に芽衣ちゃんは眉を寄せ「えぇー」と不満げだ。


「年間パスを水族館の人に自分で見せるんでしょ? 肩車してもらってたら、出来ないわよ」


 遠子さんがかさず援護射撃する。

 すると芽衣ちゃんは口をとがらせながら首から下げたカードケースを手にして、暫くカードケースを見つめる。そしてゆっくりとした動作で恭平を見上げた。


「じゃあ。なかにはいったら、かたぐるまね」


 恭平をジッと上目づかいに見て、芽衣ちゃんが念を押す。

 恭平はそんな芽衣ちゃんの様子に苦笑いしながら頷いて応じた。


「おはよー」


 丁度恭平と芽衣ちゃんの話が纏まった時、僕らの背後で女性の声がした。

 僕らは全員、声のする方を見る。

 すると僕らも登って来た階段の方から、綾辻さんがこちらに手を振りながら歩いて来た。

 彼女は首から大きなカメラを提げ、左手には黒くて頑丈そうな四角いカバンを持っている。ポニーテールにした茶髪がカメラと同じように歩くたびに揺れる。薄手の鮮やかすぎないピンク色のジャケットの下に青に近いグリーンのトップスを着ていて、ジャケットと同じ色のハーフパンツからは綺麗な細い足がすらりとのびている。可愛らしい服装に似つかわしくない大きなカメラと黒いカバンが異質に見えて、やけに目立つ。

 そんな綾辻さんの後ろを白川さんと鈴木さんの二人が歩いて来る。二人は綾辻さんと違って荷物は少なく身軽そうだ。


「綾辻さん、白川さん、おはよう! 鈴木さんもおはようございます」


 良周が三人に言葉をかける。

 良周以外の僕を含めたサークルメンバーも良周の後に続き、手を上げたり、頭を下げたり、言葉をかけたりして、三人と挨拶を交わした。


 誰と誰が挨拶を交わしたのかが正確にはわからないような状況に、僕は内心安堵する。

 白川さんと話をするつもりは勿論あるが、僕と白川さん以外は僕らがギクシャクしていることに気づいていない。僕と白川さんの状況を知って、彼らまで気まずい思いをする必要は無いだろう。


「三人で来たの?」と良周よしちか

「ええ、そうなの」


 綾辻さんはそう応じると、視線を良周の背後にいる遠子さんと芽衣ちゃんに移し「そちらの女性と女の子はもしかして、佐野さの君のご家族?」と良周よしちかに訊ねる。

 良周は「うん、そう。今日は宜しくね」と言いながら、遠子さんと芽衣ちゃんを綾辻さんたちの方へ誘導する。

 そして女性陣五人は自己紹介を兼ねた挨拶をそれぞれ交わした。


 女性陣が挨拶をし合う姿を僕は眺める。いや、と言うのは少し語弊がある。僕が見ていたのは白川さんだ。


 白川さんは今日もメガネは掛けておらず、長い黒髪を纏めずに下ろしている。そして黄色みの強いベージュのワンピースの上に白いカーディガンを羽織っていた。厚手のかっちりしたデザインのそのワンピースは、腰でワンピースと同じ色の幅のある紐ベルトを若干右に寄せて蝶結びにしてあって、いつも以上に大人っぽい装いに見えた。


 挨拶し終えた白川さんと思いがけず目が合い、僕はドキリとする。

 白川さんも不意を突かれたように僕を見つめて目を丸くした。

 白川さんと目が合った一瞬、僕は行動を起こすことを躊躇ためらう心持になる。


 ……いけない!

 ひるんではダメだ!

 話をするチャンスじゃないか!


 僕はそう思い直し、心を奮い立たせる。そして声を掛けようと彼女に一歩近づいた。


「あの。しらか……」

「お待たせしました! 只今より開館いたします」


 僕が白川さんに話しかけようとした直後、水族館前の広場中に水族館の開館を知らせるアナウンスが鳴り響いた。


「じゃあ、行こうか!」


 僕が意を決して白川さんに話しかけようとしている事など知る由も無い良周が、そう言って皆をチケット売り場に誘導し始める。

 広場で開館を待っていた僕ら以外の人々も一斉に動き出し、白川さんとじっくり話が出来る様な状況でなくなってしまった。

 白川さんが気まずそうな表情をして僕から視線を逸らし、チケット売り場へと歩き出した。

 僕は機会をいっしたと感じ、白川さんにこの場で話しかけることを諦めた。


 白川さんと話をするのは水族館の中でにしよう。

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