第60話 価値観

 芽衣めいちゃんがブランコに乗りながら、こちらに手を振る。


「うん。相手の事をよく見て、何でも話し合って、お互いへの理解を深め合っていく努力をする方が、好きだって思える相手に巡り会えた事より余程大事だと、私は思うな」


 遠子とおこさんは微笑みながら手を振り返して芽衣ちゃんに応じると、そう言った。

 僕は「……努力?」と小首を傾げながら、遠子さんの言葉をまた繰り返す。なんだかその『努力』という言葉が恋愛についての話には似つかわしくない様に感じたのだ。


「うん。理解する努力」


 遠子さんが頷いて応じる。


「確かに理解し合うって大切な事だとは思いますけど、努力って……」


 遠子さんの意見が僕の恋愛観とは少し違っていて、僕は困惑しながらそう言い淀む。そして少し考えてから自分の意見を口にした。


「恋愛ってお互いに好意を持っていて、価値観が合うっていう事が一番大事なんじゃないですか? だからそういう相手に巡り合える事の方が大事だと思うんです。努力するって言うならむしろ、そういう相手に出会える様に努力した方が良いんじゃないかな?」


 よく破局した芸能人が言っているじゃないか。

 価値観が合わなかったって。

 だからきっと価値観が合うパートナーと巡り合えるかどうかが大事なんだ。


 僕の意見を黙って聞いていた遠子さんが「価値観かあ」と呟く様に言って、空を見上げる。それからおもむろに顔を僕に向けると質問の言葉を口にした。


「そもそも価値観が同じ人なんて世の中にいるのかな?」


 そう言いながら今度は遠子さんが首を傾げる。


「全く同じは無理ですよ。価値観って育った環境とか色々な物事に影響されて形成されていくものでしょ? 人それぞれだと思います。でも、よく似た価値観の人には出会える可能性はあると思うんです」と僕。

「なるほど。確かにそういう人に巡り合えたら喧嘩も無く楽しい時間を一緒に過ごせそうだね」


 僕はそう僕の言葉に肯定的に応じた遠子さんの言葉に引っかかりを覚え「え?」と言って一瞬押し黙ってから「……喧嘩とかしないですかね?」と思わず訊き返す。


「だって、そうじゃない? 価値観が似てるって事は不快に思う物事も、好きな事も似通ってるんじゃないの? そうすると意見の相違はほぼ生まれないんだから、喧嘩も無く二人で楽しく幸せに過ごせそう」


 遠子さんは事も無げにそう言うと「確かに価値観が合う人となら、仲良くやっていけそうだよね」と僕に微笑みかける。

 僕の意見を肯定してくれる遠子さんの笑顔を見ながら、僕は複雑な気持ちになる。


 パートナーと全然喧嘩をしないカップル……

 そういうカップルも探せば存在するに違いない。

 だけど、それってかなり稀少な存在なのではないだろうか?


 僕は応じる言葉が見つからず黙り込む。

 そして自分が誰かと付き合って、付き合っている相手と全く喧嘩をしない状況を想像してみた。

 ずっとニコニコ微笑んでいて、怒ったり、泣いたりしない恋人。

 価値観が合っていてとても仲良くなれるはずのその想像の中の恋人に、何故か僕の心は全く動かない。


「因みに私とヨシ君は、時々喧嘩するわよ」


 黙り込む僕に微笑みかけながら、遠子さんが自分の状況を補足してくれる。


 理想的で羨ましいと感じていた良周と遠子さんも喧嘩をする。

 喧嘩をするということは彼らの価値観には似通っていない部分もあるという事だろう。

 でも喧嘩をするような価値観の違いを持っていても彼らは一緒にいて、僕から見ると幸せそうなカップルに見える。


「……価値観は関係ないって事ですか?」


 困り果てた僕はそう遠子さんに質問する。


「関係なくはないんじゃない? 実際に価値観が全然合わなかったら喧嘩ばかりすることになりそう。まあ、喧嘩の原因は価値観だけではないと思うけど」と遠子さん。

「なるほど。あまり喧嘩ばかりするのも嫌ですもんね」


 僕は遠子さんの言葉に頷いてそう言った。


「うん。だから高橋さんが言った『お互いに好意を持っていて、価値観が合う』っていうのは仲の良いカップルの要件としてはそんなに的外れではない気がする。でも巡り合った時点で同じ価値観を持っているっていうのは、有り得なくはないけど……」


 遠子さんはそこまで言うと言葉を濁す。僕は彼女が言葉を濁した理由に思い当たって、気恥ずかしく感じる。たぶん遠子さんも僕が感じたのと同じことを感じているに違いない。


 そう、それは……


「巡り合った時点で好意を感じ、かつ価値観も合致しているなんて、現実味が無いって言いたいんですね」と僕。

「……うん、ちょっとね。中にはそういうカップルもいるかもだけど、そんな幸運がそこらじゅうで起きてるなんて考え難い気がしない? それに『一目惚れ』なんて言葉もあるくらいだから、出会ってすぐ好意を持つことだってあると思うの。その場合、出会った瞬間に『この人とすごく価値観合う!』って分ったりするのかな?」


 遠子さんは僕の言葉に苦笑いして頷くと、そう言った。

 僕らの会話は一旦そこで途切れる。そしてしばらくの間、良周と芽衣ちゃんの様子を黙って眺めた。


 遠子さんと話し出して数分だが、早くも僕は自分の恋愛観が揺らぎ始めるのを感じていた。


 遠子さんはまるで女性版の良周だ!

 二人は喧嘩もすると言っていたけど、かなり馬が合っていることは間違いない気がする。

 遠子さんの話はもっともだと思う。だけど遠子さんと良周の出会いは、幸運な偶然なのではないだろうか?

 遠子さんの話を真に受けすぎるのも危ないかもしれない。


 僕がそんなことを考えていると、程なくして遠子さんがまたぽつぽつと話し始めた。


「だから私は出会った時点で価値観に違いがあるのは当然だなって思ってて、出会った後で『お互いへの理解を深め合っていく努力』をしていく事が大事だなって感じてるの」


 そう言って、遠子さんは良周と芽衣ちゃんに目を向けたまま「それが数年結婚生活を続けてみて、私なりに導き出した今のところの回答」と言葉を付け加える。


「今のところ?」と僕。

「まあ、私の経験なんて数年ぽっちだからね。もっと長く結婚生活を送っているカップルに訊いたら、もっと違う良い回答もあるかもでしょ?」


 遠子さんはいたずらっ子の様に微笑んでみせてそう応じると、言葉を続けた。


「でも、これって恋愛だけじゃなくて人間関係の基本だと思わない? とっても大事な事よ。話し合うって。親友同士でも、どんなに愛し合っているとしても、言わないと分からない事ってあるんだから。ちゃんと話をして、お互いを知る努力をしなくちゃ。友人、恋人、家族、仕事仲間。どんな関係だって、これを怠ると長続きしないと思うわ」


 遠子さんは不意に笑顔を消し、まじめな顔でそう言って僕を見る。それからすぐにニッコリと僕に微笑んで「それに」と言って、また言葉を続ける。


「結果的に得られる関係が同じなら、奇跡的に手に入れた関係より、自分たちで努力して手に入れた関係の方がとうといって私は感じちゃうかも」


 ああ、それは……。


 それは遠子さんの言う通りかもしれないと僕は思った。


 降って湧いた幸福と努力して手に入れた幸福とでは有難味ありがたみが全く違う気がする。


 遠子さんは尚も話し続ける。


「因みに少女漫画でもそうよ。恋する瞬間も大事だけど、お互いに理解し合う過程も大事なの!」


 遠子さんはそう念押しでもするように言うと、右手の人差し指を立て「少女漫画の読者はを楽しんでいる人、結構多いんだから!」と付け加えた。


 結果より過程……か。


 遠子さんの話は更に続き「でも、もし私に良い巡り合わせがあったのだとしたら……」と言って一旦言葉を切る。そしておもむろに改めて口を開いた。


「それは、私とヨシ君がお互いを知る努力を諦めない人間同士だったって事かな」


 遠子さんはそう軽い調子で言うと、良周の方を見ながらフフフと笑った。

 

 こうやって『価値観』について遠子さんと話してみて、僕は改めてテレビやネットでよく目にする『価値観が合わなかった』という芸能人の破局記事の事を思い出す。そしてあの言葉を言葉のまま受け止めていた自分に気が付いた。

 あの言葉の裏には『お互いによく話し合った上で、それでも納得出来るところまで価値観のすり合わせが出来なくて別れた』という過程が隠れているかもしれない。そう感じたのだ。


『高橋くん……』


 不意に脳裏に白川さんが最後に僕の名前を読んだ時の記憶が蘇る。そう呟いた時、彼女は戸惑いの表情で僕を見ていた。その直後、泣き出しそうな顔をしていたのもハッキリと覚えている。


『……ああ。もう、さっぱり分からない!』


 いで先程電車の中で思った自分の言葉が蘇る。


 そうだ!

 僕は、白川さんが何故あんな表情をしたのかが分からない。

 僕はまだ、白川さんを理解する努力をしていないんじゃないか?


 僕はそう感じ、ここ数日を無為に過ごしていたのではないかと焦りを覚えた。


 もっと早く白川さんに疑問をぶつけるべきだった!

 それに今日だってそうだ。

 家をえて早めに出て、自分から白川さんに会わないように仕向けてしまった。

 僕は彼女を理解する機会を自ら遠ざけたんだ!


 僕は自分の行動のまずさに思い至り、泣きたい気分になってくる。


 もう逃げるのは止めよう!

 辛い事実が待ち受けているかもしれないけど、何も手を打たずに避け合うなんて不毛すぎる。


 僕はそう心の中で決意した。


「……でもね。こんな話をしておいて言うのは何だけど、すっごい価値観が合うカップルってマンガのサブキャラとかで出てきたら、すごく面白いと思わない?」


 唐突に遠子さんが話し出す。


「……え? サブキャラ?」と僕。


 この人は急に何を言い出すのだろう。


「恋愛マンガの主人公ならすれ違ってくれないと困るけど。ちょっとコメディ要素な展開を入れる時には、そういうキャラがいると面白い化学反応が起きそう……」


 そう言って遠子さんは、空を見上げながら何事かブツブツと呟いた。

 そして「……メモッ! 早くメモしなきゃッ!」と叫んでしゃがみ込み、彼女の足元に置いてあった大きな手提げカバンの中をあさりだす。そして何やらメモ帳らしきものを取り出すと、しゃがみ込んだままの状態で猛然とメモを取り始めた。

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