第59話 遠子さん
◆
電車から降り、駅を出ると、道を挟んだ向こう側に青々と茂る木々を抱えた公園が見えた。
視線を公園の木々から上へ移すと近代的な様式の建物の屋根が見えており、公園の敷地の中にその建物がある事がわかる。新しそうな建物だ。
あれが水族館だな。
もう長い間来ていなかったけど、そう言えば昨年建て替えが完了したと地元のニュース番組で言っていたのを聞いた覚えがある。
ここは地元で唯一の水族館が併設されいる海浜公園。僕も五年くらい前までは、良くここに遊びに来ていた。
思い出の中の水族館周辺と現在の水族館周辺とを比べる様に、僕は辺りを見回す。そして駅の目の前の横断歩道の信号が青になるのを待って、公園側へ行く為に道を渡った。
横断歩道を渡り終えた僕は、道行く人の邪魔にならないように道の脇に寄って立ち止まる。そしてチノパンのポケットからスマートフォンを取り出すと時刻を確認した。
午前九時十五分。
水族館の開館時間は午前十時。サークルの皆とも開館時間の午前十時に水族館の入り口前で落ち合う予定になっている。
スマートフォンから目を離すと、自分の横を通り過ぎて行く人々に僕は目をやる。まだ水族館が開いていないので、今この辺りを歩いている人々は公園に遊びに来た人たちなのだろうか。数えるほどしか人は歩いていない。
だいぶ早く着いてしまった。
僕は通り過ぎて行く人々を眺めながらそう思う。しかし、それも致し方ない。早く着くというのは家を出た時から分かっていた。理由があって僕は、この時間に此処にいるのだ。
本来ならあと三十分遅く家を出ても十分間に合った。だが、そうすると駅や道中で白川さんにバッタリ遭遇し兼ねない。そう考えたのだ。
何せ僕らの家は、連れ立って行こうと誘っても変ではないくらい近い。バッタリ遭遇なんていう事態を回避する為に、早めに家を出るという選択肢を選んだ事は僕にとってはごく自然な行動だった。
一緒に行こうと誘うつもりだったのに、白川さんに出会うチャンスを自ら避けるなんて、僕は何を言っているのかと自分でも思う。
でも考えてみて欲しい。
もし自分の事を避けている人がいて、しかもその人が自分の思い人だった場合、偶然出くわすというアクシデントを出来るだけ避けたいと考えるのは至極当然の事ではないだろうか。
今まで僕は白川さんにさり気なく避けられていた。その為、精神的なダメージは思うほど
だが駅や道中で僕に鉢合わせたら、流石の白川さんもさり気なく僕を避けるのは難しいだろう。
がっつり避けられる事態になったら……
僕の
そうなれば、死あるのみだ!
……もちろん精神的にだが。
避けられているのが明白だと判っていても、目の前で決定的な場面を見せられるなんて、僕には耐えられそうもない。だから僕は確実に白川さんが出かけない時間を見計らい、こんなに早くから水族館に出かけて来たのだ。
不甲斐無さもここに極まれりだ。
そんなことを考えながらため息を一つつき、僕は海浜公園の敷地に入る。
この公園も水族館同様、五年くらい前までは良く遊びに来ていた。僕は公園の中を見回す。
公園は水族館と違って昔のままみたいだ。
僕は周りの風景を眺めながら、公園中央にある大噴水広場まで続くメインの散策道を歩く。するとすぐに右手に水族館への階段が現れた。階段の上では水族館の宣伝用のカラフルな
僕はどうしたものかと立ち止まり、左手に目をやる。そちらには魚やタコなど海の生き物を模した遊具が並ぶ広場がある。海の友だち広場。そこは小さな子供の為の遊び場だ。僕も子供の頃、この広場によくお世話になっていた。
まだかなり早い時間だが、広場の奥の方で父親とその娘らしき女の子が遊んでいるのが目に入る。
彼らはイルカのモニュメントのあしらわれたブランコで遊んでいた。ぼんやり眺めていると、女の子がこちらに向かって手を振り始める。
僕にかと思って驚いていると、僕から少し離れた所でショートカットの黒髪の女性が手を振るのが目に入った。黒いデニムパンツに丈の長い白Tシャツをバランスよく着こなした女性だ。
どうやら女の子はこの女性に手を振っているらしい。女の子の母親だろうか。
そうだよな。僕に手を振る訳がない。
僕はそう思いながら、手を振り返す女性の顔を見た。そして僕はその女性が顔見知りだと気がついた。
「
僕は思わず彼女の名前を呼ぶ。
すると女性は手を振るのを止め、切れ長の目を僕の方に向けると「あら」と言って、目を細めて微笑んだ。
「高橋さん! おはよう。早いのね」
彼女のその反応で僕は確信する。やはり彼女は
良周の家族との昼食に招かれた際に一度会っただけだが、知的な切れ長の目とほっそりとした体形、そして優しい笑顔を僕は覚えていた。
そうするとブランコで遊んでいる二人は、良周と彼の娘に違いない。
そういえば良周が、今日は家族も連れて来るって言ってたっけ。
「おはようございます。そちらも早いですね」
僕は久々に会う知り合いとの再会を嬉しく思いながら、彼女に近づき挨拶をする。
「
遠子さんがブランコで遊ぶ二人に目を細めながら、そう言った。
遠子さんの言う『芽衣』とは良周と遠子さんの娘の名前だ。やはり先程遠子さんと手を振り合っていた女の子は芽衣ちゃんのようだ。
僕は遠子さんの言葉に「そうなんですね」と相槌すると、当たり障りのない
「お仕事は順調ですか?」と僕。
「ええ。おかげさまで、忙しすぎるくらいよ。今日は久々のオフなの」
遠子さんは僕にそう応じると「だから最近はヨシ君に、ほとんど家の事を任せきりなの」と苦笑まじりに続け、視線をブランコの方へ向けた。
遠子さんは良周の事を『ヨシ君』と呼ぶ。以前会った際に初めてその呼び方を聞いた時は、何だかむず痒い思いがしたのを覚えている。だが、二度目ともなると慣れたものだ。相変わらず仲が良いのだなと、微笑ましく思うだけだった。
「今度は私が支える番だと思ってるのに、支えてもらってばっかり」
遠子さんは愛おしそうにブランコで遊ぶ二人を見ながら、独り言でも言うかのようにそう呟く。
「支える番?」
僕は少し首を傾けて訊き返す。
すると遠子さんは僕の方に向き直り、ニッコリと微笑んで口を開いた。
「ヨシ君は私が少女漫画家になりたてで
お互いに支え合う関係……
何だか良いな。
僕は心が温かくなるのを感じながら「そうだったんですか」と相槌する。
そうなのだ。
遠子さんは実は少女漫画雑誌に連載を持つ少女漫画家だ。
僕は少女漫画にはあまり詳しくないので良く知らないが、今連載中の作品が若い女性にとても人気があるらしい。
その為彼女はとても忙しく、最近は家事や育児の大部分を良周が担っていると、良周との雑談で聞いたことがあった。
なるほど確かに『支え合う』という言葉がこれほどしっくりくるカップルは、中々いないかもしれない。
……とは言うものの……
僕は遠子さんと話をしていて思い出した事があり、口を開いた。
「でも支えるとは言っても、大学に入り直すなんて驚きませんでしたか?」
僕は以前から、遠子さんに訊いてみたかった事を口にする。
幼い子どももいるのに夫の学び直しに付き合っているなんて、奇特な人だと前々から思っていたのだ。
海外では一度社会に出て大学に入り直すのは良くある事らしいが、日本ではまだまだ学び直しを実行に移すのは心理的にも、経済的にも抵抗を感じる人が多い気がする。それが一家の大黒柱なら
遠子さんは僕の質問に一瞬、目を丸くして
「ヨシ君ね。本当は当時やっていた仕事が合わないって思っていたらしいの。だけど私の夢の為に無理して続けてくれていたみたい」
遠子さんはそこまで話すと僕の方に向き直り「当時の仕事、彼が大学で学んだ事を活かせる仕事ではあったんだけどね」と小首を傾げながら苦笑した。そして、また良周たちの方へ向き直ると言葉を続ける。
「だから全く別の仕事がしたいなら、思いっ切って大学に入り直すのも良いんじゃない? って私が彼に勧めたの」
僕は遠子さんの言葉に驚いた。
まさか大学に入り直すという考えが良周からではなく、遠子さんからだったとは思いもしなかったのだ。
遠子さんの話を聞いて、僕は彼女が良周の事をとても大切に考えているのだと感じた。良周が遠子さんを大切にしているのは彼に数か月接してきて分かっていたが、遠子さんもまた良周を彼と同じように大事に思っているに違いない。
「遠子さんと良周、お互いに分り合えてるんですね。とてもお似合いで羨ましいです。僕もそんな風に分かり合える人と巡り合えるかな」
僕は自分の足元に視線を落としながら、何気なく思ったままを口走る。
口走りしながら、僕は白川さんの事を思い出す。
今の僕と白川さんの関係では、良周と遠子さんの関係には程遠い。
分かり合うどころか、避け合っているんだから。
そう思うと、自然と自嘲の笑みがこぼれてくる。
僕が白川さんを好きな気持ちは嘘ではない。
でも僕と白川さんには、良周と遠子さん程の縁が無いのかもしれない。
「巡り合いって素敵な言葉ね。でも良い巡り合いがあれば良い人生のパートナーを見つけられるってわけでも無いと思うわ」
遠子さんは良周たちに視線を向けたまま、僕の言葉にそう応じる。
「え?」
僕は遠子さんの思わぬ切り替えしに驚き、足元に落としていた視線を彼女に向ける。
「私は巡り合った後の方が、余程大事だと思うよ」
遠子さんは顔は良周たちの方へ向けたまま、視線だけ僕に寄こすとそう言葉を続けた。
僕は「……巡り合った後?」と彼女の言葉を繰り返した。
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