第54話 いがみ合う二人

「え? なんだって?」


 思いもしなかった綾辻さんの突然の言葉に、良周が驚いた様子で短く訊き返す。

 僕も思わず「辞めた?」と呟いた。

 雄太は何も言わなかったが、驚いてはいる様で目を丸くして僕の背後から顔をのぞかせている。


「そうよ。テニスサークルは辞めたの!」


 戸惑う僕らの顔を見回しながら、綾辻さんが不機嫌そうに再度言う。


「……でも」


 僕は綾辻さんの言葉を聞いても納得しきれず、テーブルの上のラケットケースを見る。


「これは今朝、持って帰るためにサークル室から持ち出したの」


 僕の視線に気づいた綾辻さんがテーブルの上のラケットケースに触れながら、ラケットを持っている理由を説明してくれる。


「……どうして急に辞めることになったんだい?」


 デリケートな話だと感じたのだろう、良周は優しい口調で綾辻さんに訊ねる。

 良周の問いに綾辻さんは一瞬沈黙する。そして、ふうっと息をつくと口を開いた。


「……見たの……」


 そう言う綾辻さんの声はかぼそい。


「何を?」


 僕も良周よしちかならって、極力優しく聞こえる様に綾辻あやつじさんに質問する。

 だが綾辻さんはキッと僕を睨む。

 僕は綾辻さんの視線に、少々たじろいだ。


 良周と同じようにしたつもりだが、気に障るような発言だったろうか?


水野みずのくんが女の子と一緒に居るところを見たのよ!」


 綾辻さんは僕を睨んだまま、そう言い捨てた。


「……ああ。なるほど」


 僕は全てを察し、そう言うと頷いてみせる。


『忠告してやったんだよ。『水野は他にも親しくしてる女がいるから気を付けたほうが良いぞ』って』


 先週、雄太ゆうたが言っていた言葉を僕は思い出したのだ。

 そして綾辻さんはを目撃したのだろうと推察した。

 そう、の水野くんと他の女の子が親密そうにしている現場を。

 その事にショックを受けて、綾辻さんはテニスサークルを辞めたくなった……、どうやらそう言う事の様だ。


 僕を睨んでいる彼女の目は、実はここに居ない水野くんに向けられたものだと分かり、僕は内心安堵する。

 だが、そうと分かっていても睨まれるというのは居心地の悪いものだ。


「ハッ!」


 綾辻さんの言葉を受けて、雄太が馬鹿にしたように笑う。

 綾辻さんは僕に向けていた視線をすぐさま雄太に向け、僕を見ていた時以上に苦々しい表情を作った。


「何よ! 何か言いたい事でもあるわけ? ひょろオタッ!」


 綾辻さんが雄太を睨みつけ、棘のある口調で言う。


「僕の言ったとおりだったわけだ!」


 ニヤニヤと意地悪そうな顔をした雄太が、僕の背後から顔だけ出して言う。意地の悪い事を言っているわりに、雄太は僕の背後から出て来る気はないらしい。


「ひょろオタ! あんた、本当にムカつく!」


 綾辻さんは怒り心頭だ。顔を真っ赤にして、僕の背後の雄太を睨みつけている。

 雄太の方はと言うとニヤニヤ顔をやめようとしない。

 僕はこんな二人の間に挟まれ、居心地が悪い事この上ない。


 誰か、助けて!


 僕は睨み合う雄太と綾辻さんの間に挟まれ、困り果てる。

 この事態を納められそうな人物を探しておろおろと視線を彷徨さまよわせた僕は、困惑した表情の白川さんの背後に目をやった。

 そこには先程『職務中ですので、私にはお構いなく』と言った時と変わらない綾辻さんのボディーガード、鈴木すずきさんの姿があった。だが、こんなに綾辻さんが喧嘩腰に言い合っているというのに、鈴木さんは素知らぬ顔でスマホを見つめたままだ。


 これって警護対象者のピンチじゃないの?

 すごい険悪な雰囲気なんですけど!


 僕は無言で鈴木さんに救援要請の視線を送り続ける。

 すると僕の視線を感じたのか、鈴木さんがチラリとこちらを見た。そして彼女は綾辻さんと雄太がいがみ合う様子を確認すると、ヤレヤレとでも言いたげにため息をついた。


 もしかして、止めに入ってくれるかも!


 僕がそう期待した瞬間、僕と鈴木さんの目が合った。

 すると鈴木さんは無言で敬礼のポーズをとってみせ、パクパクと口を動かす。


 あの口の動きは……


 鈴木さんの言わんとすることを読み取ろうと、僕は目を凝らす。


 ……が・ん・ば・れ。


 僕にはそう読み取れた。


 え?

 がんばれって、どういうこと?


 僕は無言のまま戸惑う。

 鈴木さんは口パクを終えると敬礼のポーズをめ、またスマートフォンの画面に目を落としてしまう。

 どうやら鈴木さんはこの場を納める気が無い様だ。この事態は鈴木さんの基準では警護対象のピンチには当たらないらしい。


 役立たずッ!


 僕は泣きたい気分になりながら、心の中で鈴木さんに悪態をつく。


「まあ。二人ともそんな喧嘩腰にならずに」


 助け舟は僕の隣から出た。


 良周!

 やはり持つべきものはボディーガードでは無く、気の利く友人だ!


 良周は両手をそれぞれ、綾辻さんと雄太の前に出す。


「ほら、周りの人たちもビックリしてるよ。他の人の迷惑にもなるし、ここで喧嘩するのはめようよ」


 良周はそう言って、綾辻さんと雄太を交互に見ながら二人をなだめた。


 僕に掛けられた言葉では無かったが、良周の言葉に促されて僕も辺りを見回す。

 確かに、他の学生や食堂の従業員がチラチラとこちらを見ている。


 僕はその場の人たちの視線が自分たちに集まっていると知って、急に恥ずかしくなってくる。

 白川さんを見ると彼女も僕と同じ心持の様で、顔を赤くしてちぢこまっていた。

 それは綾辻さんと雄太も同様らしく、二人も周囲を見回すとばつの悪そうな顔をして黙り込んだ。


 僕らが静かになると、周りの人々の関心が一人、また一人と僕らかられ始める。


「とにかく、もう水野くんとは会いたくないの!」


 周囲の人の興味が逸れたのをおそる恐る確認すると、綾辻さんは僕らにしか聞こえないくらいの小さな声で主張した。そして「だからテニスサークルも辞めたの!」と声は小さいが不機嫌そうな口調のまま言葉を続ける。


 雄太は何か言いたそうに口を開きかけたが、流石にもう口を挟まない。自分が何か言えば綾辻さんとまた喧嘩になると分っているからだろう。喧嘩を再開すれば、周囲の人の視線がまた僕らに集まる。雄太はそれを避けたのだ。


「そうだったんだ。それは大変だったね」


 良周は綾辻さんの話に同調する様に優しい声で相槌をする。

 綾辻さんは良周のその言葉を聞くと、急に目を潤ませた。

 僕は綾辻さんのその変わり様に、思わずドキリとする。


 綾辻さんははたから見ると勝気そうなだ。

 だが綾辻さんが話してくれたのは、彼女自身の失恋の話なのだ。いくら勝気な彼女でも、こんな話をして平気なわけがない。


 僕は綾辻さんの表情を見て、漸くその事に思い至った。そして綾辻さんの事が急に不憫ふびんに感じ始めた。


 白川さんが綾辻さんの感情の高まりに気づいて、綾辻さんを落ち着かせる為に彼女の背中を優しく撫でる。

 チラリと僕の背後の雄太に目をやると、流石の雄太も言葉も無く黙り込んで戸惑いの表情を見せている。彼も僕同様、綾辻さんの様子を見て初めて彼女が傷ついていることに気が付いたらしい。

 僕らは綾辻さんに掛ける言葉が見つからず、黙って見守る事しか出来ない。

 僕らの間に重苦しい沈黙が流れる。


 その時だ。


「じゃあ、もしかして今週末は暇だったりするかい?」


 重苦しい雰囲気に気づいていないのか、優しくはあるが明るい口調で良周が口を開く。表情も声も、今の状況にはかなり似つかわしくない。


「え? わ……私?」


 一瞬自分に掛けられた言葉かどうか、判断が付かなかったのだろう。綾辻さんは目を潤ませたまま驚いた様子で、良周に訊き返す。

 すると良周は「うん」と短く言って頷くと、綾辻さんに微笑んでみせた。


「……そうね。本当は今週末はテニスサークルの予定が入っていたけど、サークルは辞めちゃったから……週末の予定は空いてるわ」


 綾辻さんは戸惑いながらも良周の質問に答える。


「良かった! じゃあ、気分転換に一緒に水族館に行かない?」


 良周はそう無遠慮に綾辻さんに誘いの言葉をかける。


「え? 私が佐野さの君と?」


 突然の申し出に、綾辻さんは目を白黒させながら訊き返す。

 これには綾辻さんだけでなく、その場に居た全員が面食らった。全員の驚いた顔が良周に向けられる。


 良周は一体何を言い出すんだ?


「うん! 落ち込ん出る時は楽しい事をするのが一番だよ!」


 僕らの戸惑いなど意に介さない様子で、良周は綾辻さんにニッコリ微笑むとそう言った。


「え……ええええ?」


 綾辻さんの頬が目に見えて紅潮こうちょうする。自分でも顔が熱くなるのを感じたらしく、両手で両頬を包み込み冷やす様な仕草をしながら、顔を真っ赤にして慌てふためきだした。


 これって……

 良周のヤツ、綾辻さんをデートに誘うつもりか?

 でも良周は妻子持ちじゃないか!

 遠子とおこさんというものがありながら、一体何を考えているんだ?


「おい、良周! お前は何を言って……」


 僕も綾辻さん以上に動揺しながら、良周を止めるべく口を挟む。

 すると良周は、笑顔のまま僕の方へ顔を向けた。そして今度は僕に向かって話し出す。


史一ふみかずも、週末空いてるかい?」と良周よしちか

「え? 僕も水族館へ行くって事?」


 僕は良周の問いに出鼻でばなくじかれ、間抜けな声で訊き返す。

 すると良周は「勿論! どう? 終末は空いてる?」と、もう一度訊いてきた。

 綾辻さんには僕と良周の会話が聞こえていない様で、まだ顔を真っ赤にして「え? え? 佐野君って奥さんいるんだよね?」などと、ブツブツ呟いている。


「まあ、今のところ予定は無いけど……」


 僕はまだ事情が飲み込めず、答えつつも言い淀む。


 どうやら綾辻さんと良周が二人きりでデートをするという話では無いみたいだ。


 僕はその事には確信を持つことが出来、ホッと胸を撫で下ろす。

 すると僕の背後でもホッというため息が聞こえてきた。そして「なんだ……史一も一緒か……」と雄太が安堵した様な口調で呟く。


「佐野君、もしかして私達全員を誘う気?」


 白川さんが困惑した表情で良周に訊ねる。混乱状態の僕らとは違って、白川さんは一人冷静に事態を分析していたようだ。


「うん、そうだよ。サークル活動の一環として皆で行ってみない? 綾辻さんはサークルメンバーじゃないけど、人数は多いほうがきっと楽しいと思って誘ったんだ」


 良周がニコニコしてそう言う。


「……え? サークル活動?」


 ようやく僕らの会話が耳に届いた様で、綾辻さんが頬から手を離すと、ポカンとした顔で良周に訊き返す。


「そうだよ。ちょうどサークルの皆を終末、水族館に誘おうと思っていたんだ。綾辻さんも暇なら是非参加してよ! 歓迎するよ!」


 良周が両手を広げて、歓迎の意を表す。


「な……なんだぁ。ビックリした」


 状況が飲み込めた綾辻さんが安心したような、少し残念そうな口調でそう言った。そして彼女は胸に手を当て、ホッと息を吐く。


「ああ。ホント、心臓に悪いよ」


 雄太ゆうたが珍しく綾辻さんに同調する。

 良周は「あれ? 何か、驚かせちゃったかな? ごめん、ごめん」と言って、悪気のない様子でハハハと笑った。

 僕と白川さんは顔を見合わせ、ホッとした表情でクスリと笑い合う。

 良周の言動には驚かされたが、おかげで先程までの重苦しい雰囲気が一気に消し飛んだ。

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