第52話 知っているのに知らない

 Wi-Fi接続後、美月みつきねえちゃんは今まで動作が遅かったと不満に思っていたアプリの動作確認をした。すると動作が格段に速くなったらしく、美月姉ちゃんは嬉しそうに顔を輝かせた。

 どうやら奏人かなとの言う通り、美月姉ちゃんのスマートフォンの不調はインターネットへの接続の問題だったようだ。


「前に初心者にはスペックの高いパソコンやスマホが良いんじゃないかって言うのを聞いたことがあるんだけど、本当にそうかもね」


 設定を済ませた奏人は元居た席に戻り、ふうっと息を付いてそう呟いた。


「どういう意味だ?」と僕。

「端末がハイスペックだから、不具合時に端末の処理能力を考慮しなくて良いのは助かるってこと。トラブルになった時に考える原因が格段に少なく済むもん」


 奏人はそう言うと、右手の人差し指を立てて「おばあちゃんのノートパソコンは性能がギリギリ過ぎて、ソフトウェアやスペックの確認が必要だったでしょ?」と僕に言い含める様にそう言うと、眉をひそめる。


「しかも買い直すことになりそうなんだよ? 安いどころか、美月姉ちゃんがるって言ってくれなかったら、大損だったかもしれない」


 奏人はそう僕以外の人に聞こえないような小声で言うと「だから自分が分かっていないと思う製品を買う時は、人気機種かハイスペックに近い製品を買った方が、後々楽な事があるって言う話は、あながち間違いじゃないなって思ったんだ」と少し疲れた様子で微笑んで付け加えた。

 僕は奏人の意見に「ふうん」と相槌する。


 確かに今回の祖母のように出来るだろうと思っていたことが、値段だけで選んだ所為で出来ないという事は、よくある話のような気がする。しかも祖母の場合、危うく安物買いの銭失いになるところだった。

 何でもかんでも高い物が良いとは思わないが、パソコンやスマートフォンのようなものを買う場合は、そう言う考え方で物を選ぶのも間違いではない気が僕もした。


 僕はそんなことを考えながら、何気なく美月姉ちゃんの方に目をやる。

 美月姉ちゃんはまたアプリコットのストラップを嬉しそうに眺めている。


『学校で習いもしないのに……気づける? ……何だか知っている人だけが……得をするみたい』


 美月姉ちゃんの手元で揺れるアプリコットのストラップを目にした僕の脳裏に突然、先日の白川さんの言葉が蘇ってきた。

 そして、僕はハッとする。


 白川さんの言っていたことは、今日の祖母のパソコンにも言えることなのではないかと感じたのだ。

 もし祖母がパソコンに詳しかったら、きっとあのノートパソコンを買うことは無かったし、買い替えの話が持ち上がる事も無かったはずだ。

 それだけではない、先日家族で話をした自宅のWi-Fiの活用法や定額制の電子雑誌サービスだって、享受できる状況にあるのに知る機会に巡り合えずに居る人が大勢いるに違いない。


「パソコンや携帯電話も……保険や年金に似てるな」


 僕は最近あった色々な出来事を思い出しながら、思わずボソリとそう呟く。

 奏人がそんな僕の独り言を耳にして「保険? 年金?」と首を捻りながら『お兄ちゃん、何を訳のわからない事を言ってるんだろう?』とでも言いたげな表情をした。


「ねえ、かなちゃん。私のもWi-Fiの設定をお願い。実は私も美月と同じこと感じてたのよ」


 僕と奏人がそんな取り留めのない会話をしていると、今度は亜希伯母さんが奏人に話しかけながら、自分のスマートフォンを奏人の前に差し出してきた。そして「あと、このタブレットも」と言って、ノートサイズのタブレット端末も一緒に渡して寄こす。

 亜希伯母さんから渡されたタブレットのディスプレイの下部には、携帯電話会社名が印刷されている。


「どうしたの? このタブレット」


 食卓に置かれたタブレットに目をやりながら奏人が訊く。


「この前、携帯電話の契約を見直しに行ったら、勧められたの」


 亜希伯母さんが奏人の質問に答える。


「今使っているスマートフォンとデータ量をシェア出来るって言われたのよ。それで、契約しちゃった」


 亜希伯母さんはそう言葉を続けると「タブレットって、画面が大きくて使いやすいのね」と言って、満足そうに微笑んだ。

 かなりこのタブレットを気に入っているようだ。


「へえ! いいね。じゃあ、そのタブレットを持って出掛けたりするんだ。良いよ、設定しておく」


 奏人は亜希伯母さんの話を聞いて、こころよく請け合う。

 奏人も少し前までタブレット派だったからか、亜希伯母さんのタブレットの購入を好意的に受け止めたのだろう。


「あら。外には持って行かないわよ。勿体無い」


 亜希伯母さんがスマートフォンとタブレットのロックを解除しながら、奏人にそう応じる。


「え? じゃあ、家の中だけ?」


 そう訊き返す奏人の表情に困惑の色が浮かぶ。


「そうよ」


 亜希伯母さんは奏人の変化には気づかないようで、何気ない様子で奏人の言葉を肯定する。そして食卓の上を見回すと「お茶のおかわりを持ってくるわね。設定、宜しくね」と言って、席を立ってしまった。

 僕は席を立つ亜希伯母さんを見送りながら、亜希伯母さんと奏人の会話に違和感を感じ、モヤモヤした心持こころもちになる。

 僕は自分の感じた違和感の正体を探るべく、亜希伯母さんの話からこのタブレットの事を推察することにした。


 このタブレットは今からWi-Fiの設定をする。つまり今までは、亜希伯母さんが契約しているスマートフォンのデータ量を使ってインターネットに接続されていたという事だ。そして勿体ないという理由から、このタブレットは外出先に持って行かれたことは無い。そんな風に推測が立った。


 それって家の中でしか使わないタブレットの為に、外出先で通信をすることが主な目的であるはずの携帯電話会社のサービスを契約している……という事にならないか?


「……おい。奏人」


 僕は奏人の肩に手を置き、困惑しながら弟に呼びかける。

 僕の言いたい事を察した奏人は、僕の方を振り返らずに「うん。わかってる」と応じた。


「言わないのか?」


 亜希伯母さんの契約内容のチグハグな状況を本人に知らせるべきだと思った僕は、そう言って奏人を促す。

 奏人は僕の問いに答えず、父さんと母さんの方を見る。

 だが二人は何事か話をしているようで、奏人と亜希伯母さんとのやり取りには気づいていないようだ。


「本当に分かっていないのかな? さっきまで美月姉ちゃんと僕が話していた内容を興味を持って聞いていた様に見えたけど」


 奏人は両親の方を見ながら僕にそう言うと、奏人も僕と同様な困惑した顔で「それにタブレットを契約する時も携帯電話会社の窓口で、似たような説明を受けているはずだよ」と言いながらこちらを振り返る。

 奏人が言いたい事はつまり『亜希伯母さんは少なくとも2回、自分の契約状況のまずさに気づく機会を持っていたはずだ。だが、その事に気づいていない様に見えるのは何故か?』という事の様だ。


 複数回説明を聞いているはずなのに、理解出来ない。

 まあ。複雑な契約を交わす際には、そう言う事も無くはないと僕は思うが……。


 僕がそんなことを考えながら困惑して黙り込んでいると、奏人が口を開く。


「それに分っているけど敢えてそうしている可能性も、亜希伯母さんなら無くもない」


 奏人は真面目な顔をしてそう言うと「文句を聞くくらいだったら高いスマホを買ったり、パソコンを買い直しちゃおうって言ってしまうような人だし。案外分かっていて些末さまつな事だと思っているのかも……」と、右手を顎にあてがいながら推測を口にする。


「……確かに、亜希伯母さんなら有り得なくはないな……」


 奏人の言う通りだ。

 今日のこの短時間の間に、亜希伯母さんの過剰なくらい大らかな性格を僕らは二度も見せつけられている。分かっていて気にしていないという可能性は、大いにあるのではないだろうか。


「でしょ? 要らない心配なのかも。もし分かっててやってるなら、これ以上この話をするのは……しつこいって思われるだけかも」


 食卓に置かれた亜希伯母さんのスマートフォンとタブレットに目をやりながら、奏人は右手を顎にあてがった姿勢のまま、また推測を口にする。


「でも。そうだったとしても、なんか引っかかるな……」と僕。

「……だよね」


 奏人は頷いて、僕に応じると食卓の上に落としていた視線をこちらに向ける。


「お兄ちゃん、後で俊樹としきお兄ちゃんに事情を電話しない?」


 奏人はそう僕に提案すると「『亜希伯母さんがWi-Fiと携帯電話会社の電波の違いを分かっていなくて、携帯電話の使用料が高くなってるかも』って、さりげなく俊樹お兄ちゃんに伝えておこうよ」と提案の意図を告げた。


 なるほど!

 俊樹か!


 確かに同い年の俊樹になら話しやすい。しつこすぎるかもなんて気兼ねする事も無く事情を伝えられるだろう。

 しかも先程、僕が俊樹についての余計な事を亜希伯母さんにばらしてしまった事も伝えておける。もし亜希伯母さんが本当に分かっていないなら、その事を俊樹から伝えることで俊樹の株が上がり、亜希伯母さんの怒りも少しはおさまるかもしれない。


「奏人。お前、天才だな!」


 僕はそう言うと、右手の親指をグッと前に出す。奏人はそんな僕を見て「へへへ」と、むず痒そうに歯を見せて笑った。


 亜希伯母さんへの対処法が決まった奏人は、亜希伯母さんのスマートフォンとタブレットのWi-Fi設定を始める。

 僕はそんな奏人の様子を眺め、今日起こったことを一つ一つ思い出す。

 そして先日一緒に書店に行った際の白川さんに、心の中で話しかけるのだった。


 白川さん。

 確かに必要な情報を知らずにいるなんて、問題だよね。

 でも世の中には情報を手に入れているのに、手に入れた事に気づいていない人も沢山いるかもしれないよ。

 事は僕らが考える以上に、深刻なのかも……



 ◆


 田倉家を訪問した次の日。

 僕は予定通り自宅でノートパソコンの設定をした。奏人も手伝ってくれ、思ったよりもスムーズにパソコンの立ち上げを完了することが出来た。

 おかげで余った時間を使って、動画編集ソフトの導入も終わらせた。もちろん、こちらも奏人のサポートがあった事は言うまでもない。


 こうして僕は動画が作れる環境を全て手に入れることが出来たのだった。

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