第44話 白川さんの中の僕

「へえ! 高橋くんって保険とか分かるの?」


 そう言いながら、白川さんが僕に尊敬の眼差まなざしを向けてくる。

 白川さんの視線が、僕にはとてもまぶしく感じられた。

 その視線に戸惑いながら『白川さんの心の中の僕は一体どんな人物だと認識されているのだろう?』と、僕は急に恐怖心に駆られる。


 白川さんと話すようになってから何度か、今向けられているのに近い視線が自分に向けられたことがあることを僕は思い出す。

 特に今日のバス停での一件は、間違いなく彼女を誤解させている自覚が自分でもあった。

 僕は今になってバス停で見栄を張ってしまった事を後悔し始める。


 僕は平々凡々な、しがない男子大学生なのである。他人に尊敬されるような長所など有ると感じたことは一度も無い。


 との落差に気づいたら、白川さんはどんな風に思うだろう?


 そんな疑問まで沸き上がって来て、白川さんの僕に対する眼差しに、僕は益々ますます縮み上がる。


 なんとか白川さんの僕への印象をもっと平凡なものに押し下げなければ!


 我ながらおかしなことを言っている気もするが、この時の僕は本気でそう考えていた。


「わ……分かってるなんて、とんでもない! 本でちょっと読んだだけの付け焼刃な知識しかないさ」


 白川さんの僕への認識を変えたいという気持ちと、保険に詳しいなんて思われるのは困るという二つの気持ちが入り混じって、僕はそう口にする。


 白川さんに誤解されているのも困った話だが、特に保険について解っているなんて思われて相談を持ち込まれるのは、それにも増して困る事態だ。

 そういう相談は面倒な上に、他人の一生を左右する可能性をはらんでいる。


 こういう事には出来るだけ関わり合いたくない!


 僕はげんなりするような事態をいくつも想像する。そして体の前で両手を左右に振りながら、必死に否定した。


「そんなに謙遜しなくても良いのに。私なんて、そういう事が書かれた本を読んだこと、一度も無いわ。そういう本を読んだ事があるって言うだけでも、すごいと思う!」


 大慌てで否定する僕のリアクションが面白かったのか、白川さんがクスクス笑いながら言う。

 僕は白川さんに『すごい』と褒められて、自分の無力さすら感じ始める。必死に自分の不見識さをアピールしているつもりなのに、彼女に全く伝わらない。


 どうすれば分かってもらえるのだろう?


 僕が途方に暮れていると、良周よしちかが口を開いた。


「僕もそういう本、読んだ事ないんだよね。そういうのって読む価値あるの?」


 白川さんへの対処に困り果てていた僕に、良周よしちかが訝しむような口調で訊いてきた。

 僕は白川さんから視線を外し、良周よしちかほうを向く。見ると、良周よしちかの僕への視線はかなり疑わしだ。

 白川さんの尊敬にも似た視線にドギマギしていた僕は、良周よしちかのその友好的とは言えない視線に何故か安堵を覚え、少し平静を取り戻す。


 僕に向けられる視線はこのくらいで丁度良いのかもしれない!


 我ながら若干、自己肯定感が低すぎるようにも感じた。だが、確実に心のバランスが正常に戻っていくのを僕は感じる。そして良周よしちかの疑問に答える為に、考えを巡らすことに僕は意識を集中することが出来るようになった。


「……うーん。実は最近そういう保険やお金についての本を読んだんだけど、高校まででは習わないような事ばかり書いてあって、僕には新しい情報ばかりだった。大学で経済学部とかに行くような人は勉強するのかな? って、読んでて思ったかな。どの本も知識として持っておいて、損はない内容だったと思うよ」


 僕は読んだ本の内容を思い出しつつ、良周よしちかの質問に答える。


 幸いにも良周よしちかに話した通り、その手の本を読まされたのは高校を卒業して大学に入る前。最近の出来事だった。その為、まだ読んだ本の内容に関する記憶も鮮明だ。


「どの本もって言い方、一冊じゃないってことか? 何冊くらい読んだんだ?」


 僕の答えを聞いた良周よしちかは、驚いた様子でまた質問をしてきた。

 良周よしちかの言う通り、僕が父さんから読むように言われた本は数冊あった。僕は良周よしちかの質問に答えようと「うーん」と唸りながら、読んだ本を一冊、また一冊と思い出す。


「……保険の本を三冊と……お金全般についての本を三冊くらい……かな?」


 僕は記憶を辿るように思い出しながら質問に答える。


「六冊も読む必要があるの? 多くない?」


 今度は白川さんが驚いた様子で訊いてくる。何だか質問攻めだ。だが、確かに六冊というのは多く感じるかもしれない。


「春休みに渡されたから、読む時間はたっぷりあったんだよね。でも……どの本も結構言ってることが違ってて、……混乱した」


 普段通りに良周よしちかが接してくれたお陰か、白川さんにも良周よしちかにするのと同じように応対することが出来る心理状態に、僕はいつの間にか戻っていた。


「それ、質問の答えになって無い気がする」


 良周よしちかが首を振りながら僕の答えに物言ものいいを付ける。

 僕は良周よしちかの言葉に「そう?」と相槌すると「うーん」と言いながら、違う説明の言葉を探す。


 物言ものいいを付けられたのに、僕は自分でも驚くほど平常心を保てている。白川さんによって持ち上げられ過ぎた僕は、良周よしちか疑義ぎぎによって地上に降りてきたのだ。

 そのように僕には感じられた。


 その時だ。

 カフェのカウンターの方から「8番でお待ちのお客さまー」と言う呼び声が聞こえてきた。

 僕らは三人してテーブルの上の番号札を見る。番号札に『08』と書かれているのが目に入る。白川さんの注文した物の準備が出来たようだ。


「あ、私のだ!」


 白川さんがそう言いながら立ち上がる。そして何か思いついたように、また「アッ」と呟いて一瞬動きを止めると、僕の方を見た。


「今している話。私もちゃんと聞きたいから、待っててくれる?」


 白川さんが申し訳無さそうに言う。

 白川さんの頼みに、僕と良周よしちかは同意の意を頷いて知らせた。白川さんの質問に答えている最中なのだ。彼女抜きで話は出来ない。

 僕らの同意を得た白川さんは「すぐ戻るから!」と言って、カフェのカウンターへ向かった。


 白川さんがカフェのカウンターに行っている間、答えを考え直す時間が少し出来た。


 良周よしちかはコーヒーを飲み始める。

 僕もどう伝えたものかと思案しながら、自分のコーヒーに口を付ける。

 コーヒーの香ばしい香りが僕の鼻をくすぐる。

 その香りに僕は気持ちが安らいでいくのを感じた。


 程なくしてトレーを持った白川さんが帰って来た。


 随分ずいぶん早いなと思ってトレーの上の飲み物を見ると、グラスに入った透明な薄茶色の液体から沢山の泡が出ているのが目に入った。たぶんジンジャエールか何かだろう。なるほど、これなら砂糖やミルクを入れる必要もないから、帰ってくるのが早くて当然だ。

 白川さんはそそくさとトレーをテーブルに置いて椅子に座ると「お待たせ! 高橋くん、続きをどうぞ」と僕に話の続きを促した。


「……えっと。例えば、保険についての本。僕が読んだ三冊は書いた人が違うんだ」


 実は考えがまだまとまり切っていない。だが白川さんに促されるまま、僕は読んだ本について話しを始める。

 話せるところから話していけば自ずと考えがまとまるに違いない。僕はそうたかくくったのだ。


「まあ、そりゃあ一人で何冊も保険関係の本ばかり出したりしないだろうし、不思議な事じゃないよな」


 良周よしちかが拍子抜けしたような表情で合いの手を入れてくる。

 僕はその言葉に小さく頷き「まあ、そうなんだけど」と相槌して話を続けた。


「とは言え、うちの父さんは意図いとがあって、この三冊を選んだんだと思う」


 僕がそう言うと、白川さんが「お父さんの意図?」と呟いて小首を傾げる。

 白川さんのその言葉に、僕はドキリとする。


 父さんに渡されたから保険やお金の本を読んだということは、白川さんは知らないのだ!


「史一の家は、結構お金にシビアなんだよ。定期的に家計について家族会議があるらしいんだ。たぶん、その流れで親父おやじさんにそういう本を読むように勧められたんじゃないかな?」


 良周よしちかが口元を僕に見えないように右手で隠しながら、白川さんに『察してあげて』とでも言いたげな憐憫れんびんの混じった口調で僕の家庭の事情を説明する。


 口元を隠しても、言っていることは丸聞こえだ!

 そう言えばサークルに加入する前くらいに、良周よしちかに『お金会議』の話をしたんだった!

 良周よしちかがあんな前の話をまだ覚えていたとは!


 僕は予想外の展開に黙り込む。そして脇に嫌な汗をかきながら、良周よしちかに保険やお金の本を読んだ経緯の説明をした時の事を思い出していた。


 茶化して来ない事に安堵していたが、良周よしちかは気づいていないわけでは無かったのだ!

 以前僕が話した我が家の家族会議の事をしっかり覚えていて、僕なら父親からの指示に反発しないことも有り得るだろうと、良周よしちかは納得したから何も言わなかっただけに違いない!


 僕はこの事に気づき、ガンッと頭を叩かれたように感じた。

 良周よしちかにそんなつもりは無かったかもしれない。

 だが僕は『親に言われたから本を読むなんて、お前はまだまだお子様だ』と言われたような気持になった。

 先程まで僕は平凡に見られたいと思っていた。だがようやという名の大地に足がついたと感じることが出来たばかりだというのに、今や僕はという名の崖下へ真っ逆さまに落下してしまった。

 そんな気分だった。


 平凡なのと、幼いのとでは僕の抱く印象は全く違う!


 僕の隣では白川さんが良周よしちかの説明に「へえ! 高橋くんのお父さんって、しっかりした人なのね!」と感心したように相槌を打っている。

 しかし彼女のその声はまるでガラス越しの声ように、僕には聞こえる。


 終わった……


 何がかは分からないが、ふと僕はそう感じた。


「それで? 高橋くんのお父さんの意図って何なの?」


 放心状態の僕に、白川さんが事も無げな様子で再度訊く。

 僕は「えっと……」と弱弱しく呟く。


 今の僕は、一度は回避したと安堵していた幼さを結局露呈し、自尊心が大いに傷ついていた。


 この場からどうにかして逃げ出したい!

 だが急に話をやめて逃げ出したら、どう考えたっておかしな人だ!

 ……そんなことをすれば、傷は大きくなるばかり……

 どうにかしてショックを受けている事を隠し、これ以上傷口を広げないように注意しながら、この場を切り抜ける!


 どうやら僕の進むべき道はこれしかなさそうだと、僕は観念する。


 僕はショックを受けていることを悟られない為に、なんとか弱り切った心に鞭打って自分を奮い立たせる。そして何事もなかったかのように説明を続けようと、右手の人差し指を立てて見せた。『1』の意味を込めたジェスチャーだ。

 僕はおもむろに説明を続けた。

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