保険と年金

第43話 良周、保険に入る?

 僕は番号札を持って良周よしちかの待つテーブルに向かう。

 近づいて行くとテーブルには先ほど見たコーヒーのマグカップ、購入した本が入っているらしい書店の紙袋、そして何かのパンフレットらしき冊子が数冊置かれているのが見えた。

 僕はテーブルに向けていた視線を何気なく良周よしちかに移す。彼は眉を寄せ難しい顔をしてパンフレットらしき冊子の一冊を読んでいた。


「何それ?」


 僕は言いながら『05』の番号札と、閲覧用に持ってきた本をテーブルに置く。


「保険のパンフレット」


 良周よしちかが冊子から目を離し、僕を見るとそう言った。

 パンフレットという僕の予想は当たった。


 それにしても……


「保険のパンフレット? 良周よしちか、保険に入るの?」


 僕は思いもしなかった良周よしちかの回答に、少々驚きながらそう訊いた。そして背負っていたリュックを降ろすと、そのリュックを椅子の背に引っ掛ける。


「まあね。生命保険には入ってるんだけど、もう一つ増やそうかと思ってさ」


 良周よしちかの返答を聞きながら、僕は「ふーん」と相槌を打つと席に着く。僕は椅子に座りながら『生命保険に入ってるのか。良周よしちかは妻子持ちだから、そういうものも必要なんだろうな』と考えた。


 その時だ。

 良周よしちかが手にしているパンフレットに書かれた文字の一部が、僕の目に入った。パンフレットには『米ドル』という文字が印刷されていた。


「今見てる保険、入るつもり?」


 僕は『米ドル』という文字が気になって、思わず良周よしちかに訊ねる。良周は「考え中なんだ」と短く答えた。


「それって外貨建ての預金みたいな保険だよね?」


 僕は質問を続ける。


「うん。ほら、うちの遠子とおこさんは自営業だし、僕もYouTubeを仕事に出来ないかって考えてるだろ。そうなると僕もくは遠子とおこさんと同じ自営業者の可能性が高い。それに僕と遠子とおこさんには娘もいる」


 そう言いながら良周よしちかは、左手に持ったパンフレットを右手でポンポンと叩く仕草をする。

 僕はその様子を見ながら「うん」と短く相槌する。相槌をしながら良周よしちかがそこまで考えてYouTubeに取り組んでいるのだと知り、彼が保険のパンフレットを見ていたと知った先程と同じくらいの驚きを感じた。


「だからさ。保障を厚くしておかなきゃなって感じてたんだ。自営業はサラリーマンと違って、収入が安定しないことがあると思うから。貯蓄型なら貯金も出来て、保険にも加入できるから一石二鳥かな? って思ったんだよ」


 良周よしちかはそう言葉を続けながら僕の表情を見る。そして眉をしかめると「何? 何か変な顔してるよ」と、勘繰るように言った。

 思っていることが顔に出てしまったらしい。僕は一瞬言うべきか迷い「うーん」と小さく唸ると、口を開いた。


「外貨建てって言われるものには注意しろって、本で読んだことがあるのを思い出したんだ……」


 良周よしちかが見ているパンフレットの保険について、僕の持っている情報はあまり良い意味のものでは無かった。その所為せいで話しながら、僕は気まずい思いを深める。

 そして良周よしちかが言う所の『変な顔』に、益々ますますなっていくのを自分でも感じた。


「どんな本読んだら、そういう話が載ってるんだよ?」


 良周よしちかは僕の発言に驚いた顔をする。そんな言葉を僕から聞くなんて、予想外と言いたいような顔だ。

 しかし彼にとって予想外であったろう僕の発言に、良周よしちかは合いの手じみた疑問を口にすることを忘れはしなかった。


「父さんに読んどけって言われて渡されることがあるんだよ。そういうことが書かれている本」


 僕は良周よしちかの質問に答える。


 大学生にもなって父親に読む本を指示されているなんて、ばつの悪い話だ。


 僕は良周よしちかの持つパンフレットに話を向けたことを少し後悔する。


 良周よしちかは僕の答えに「ふうん」と特に思う所も無いような相槌を打つと「外貨建てって駄目なの?」と僕に質問を続ける。

 僕が父親から渡された本を言われるがまま読むような未熟さを露呈したことを、良周よしちかは気にも留めていないようだ。

 今は僕の事よりも『外貨建て』の方に意識が向いているのかもしれない。


 良周よしちかあごに手を当て、手にしているパンフレットをまた真剣に眺め始める。

 茶化されやしないかと冷や冷やしていた僕は、そうはさそうだと感じてホッと胸を撫で下ろした。


「そういうのは手数料が沢山かかるって書いてあるのを読んだことがあるような……」


 僕が安堵で表情を緩め、そう発言したところで「5番でお待ちのお客さまー」と言う呼び声がカフェのカウンターから聞こえてきた。

 僕の注文したコーヒーの準備が出来たようだ。


「あっ。僕だ。コーヒー取りに行ってくるよ」


 僕はそう言って、話を中断すると席を立った。


「……うん」


 良周よしちかは気のない返事をして僕に手を振る。彼の視線はまだパンフレットの上を彷徨っている。

 僕はそんな良周よしちかの姿から目を離すと、コーヒーを受け取りにカウンターに向かった。


 カウンターの向こう側から笑顔の女性店員が「お待たせしましたー」と言って、小さなトレーに乗ったコーヒーを差し出してくれる。僕は礼を言ってそれを受け取り、今度はセルフサービスコーナーに足を向ける。

 セルフサービスコーナーで砂糖とミルクをコーヒーに入れ、自分好みにコーヒーの味を調整する。

 僕はコーヒーをこぼさないように慎重にコーヒーの乗ったトレーを持ち直すと、良周よしちかのいるテーブルに戻った。


「ただいま」


 僕がそう言うと、良周よしちかはスマートフォンの画面から目を離して「おかえり」と言いながら、こちらをチラリと見る。僕がいない間にパンフレットを読むのは止めたらしい。


「今さ、スマホで『外貨建て保険』で検索してたんだ……」


 良周よしちかが脈絡無く話し出す。パンフレットを読むのは止めたが、頭の中が保険の事でいっぱいなのは、僕が席を立つ前と変わらないようだ。


「うん」


 僕は短く相槌を打つ。

 そのワードでの検索結果に、僕は少なからず予想がついている。


 良周よしちかは僕が思っているような情報にたどり着いただろうか?


「1ページ目からすごい言われような記事が……」


 そう言いながら良周よしちかが眉をひそめ、困惑した表情を作る。

 良周よしちかがこんな顔をするのは、珍しい事だと僕は感じた。少なからずショックを受けているのかもしれない。


「……そっか」


 良周よしちかが僕の予想通りの情報が載った記事を見つけたと察しがついた僕は、僕の予想に反しない良周よしちかの答えに小さく頷くと、また相槌を打つ。


「学生とは言え、妻も子供もいるから保障は厚くと思ったんだけどな」


 良周よしちかが言いながら椅子の背に体重を預ける。彼の声には表情同様に困惑の色が混じっている。


「その考えは間違っていないと思うよ」


 僕は頷いて良周よしちかの言葉に同意した。自営業同士のカップルが保障を厚くしたいと考えるのは至極当然だと僕も思った。

 

 例えば明日、縁起でもないけれど良周よしちかが不慮の事故で亡くなってしまうとする。

 良周よしちかに貯蓄が無い場合、彼の奥さんと子供は良周よしちかからの収入を得る機会を失い、前提の通り貯蓄は無いので今後の生活に関わる多くの費用を奥さん一人で賄わなければならなくなる。このような場合、生命保険に入っていれば随分経済的に助かるはずだ。


 そう、貯蓄が無ければ……

 

ちなみに良周よしちかって、すごいお金持ちってことは無いよね? そんなに保険に悩んでるくらいだし……」


 僕はそんな事は無いだろうとは思いつつも、念のため確認する。


遠子とおこさんが働いているとはいえ、僕が会社員を辞めて大学に入り直したから……どちらかと言うと金銭面は心もとない」と良周よしちか

「なるほどね。経済的な余裕が無いなら、保障はそれなりに必要そうだね」


 良周よしちかの答えを聞いて、僕は彼の保障を厚くしたいという良周よしちかの意見をより一層肯定的にとらえる。


 保険は働き手が働けなくなるとお金に困るから加入するのだ。

 極端な話、金持ちなら保険に入る必要など無いのではないかと僕は思う。

 大学に入り直すような人間ならもしかして、とんでもない金持ちのおぼっちゃんなのかもと一瞬勘繰かんぐったが、良周よしちかも僕と同じ一般庶民のようだ。


 ところで、遠子とおこさんと言うのは良周よしちかの奥さんの事だ。

 幼い子どももいるのに自営業者として働いていて、夫の学び直しに付き合っている。

 なんとも奇特な人が世の中にはいるものだなというのが、僕の彼女に対する最初の印象だ。


 実は一度、僕は遠子とおこさんに会ったことがある。

 良周よしちかの家族との昼食に招かれ、彼の家に遊びに行った時の事だ。

 遠子さんは料理上手で気さくな、美しい女性だった。

 最近は仕事が忙しいそうで、良周よしちかや娘の為に料理の腕前を振るう時間が取り難くなっていると、彼女は嘆いていた。

 そう言えばその際、そんな遠子さんに良周よしちかが「僕の作る料理もなかなかなものだろ?」と冗談めかして言っていた。良周よしちかと料理の話をする機会はそんなに無いが、案外自宅では料理をしているのかもしれない。

 良周よしちかのそんな冗談めかした言葉を聞いた遠子とおこさんが、とても幸せそうに笑っていたのを僕はまだ覚えている。


 あれは何とも温かい気持ちになれる時間だった。


 あんな人が人生のパートナーだなんて、良周よしちか果報者かほうものだと僕は思う。


「遅くなっちゃった。何の話してるの?」


 突然、僕の背後で僕と良周よしちかに明るく話しかける声がした。


 驚いた僕は話を中断し、思わず背後を振り返る。

 そこには右手に本、左手に『08』の番号札を持ち、左手側の小脇にバッグを挟むように抱えた白川さんが立っていた。

 白川さんの手が全て塞がっているのを見て、僕は自分の隣の席の椅子を後ろに引く。


「ありがとう」


 白川さんは僕に微笑んで礼を言うと、手にした荷物をテーブルに置きつつ、僕の隣の席に座った。


「保険の話だよ。僕が入ろうかなって考えてた保険について、史一が詳しくてさ」


 良周よしちかは白川さんが席に着くのを待って、彼女の質問に答えた。


「く、詳しいって言われる程の事は話してないよ」


 良周よしちかの『詳しい』という評価に、僕は慌てる。


 父さんに薦められた保険について書かれた本は最後まで読んだ。だが読みはしたものの、内容をきちんと理解をしたかと言われるとあまり自信が無かったのだ。


 詳しいなんて、とんでもない!

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