第31話 白川メディアグラフィクスの業務

 僕たちは居住スペースの玄関を出て階段を下り、事務所のドアの前に立った。


 僕は仕事の邪魔になってはいけないと思い、余り大きな声にならないように気を付けながら「お邪魔します」と言って事務所のドアをゆっくりと開ける。


「来たね。まあ、ゆっくり見学して行って」


 僕に気づいた佐藤さんがそう言いながら歩み寄る。手には大きなシステム手帳らしきものを持っている。黒い革張りで、いかにもビジネス用と言った雰囲気の手帳だ。たかが手帳なのだがそれが目に入った瞬間、ここは仕事をする場所なんだと僕は改めて認識した。

 僕は少し緊張した面持ちで「ありがとうございます」と言って、中へ入る。

 僕が入るのに続いて、綾辻さん、白川さんも事務所の中に入って来た。

 それを見て、「杏ちゃんと理沙ちゃんも来たんだね。みんな仲良しだな」と佐藤さんがニコニコする。


 実際は今、ギスギスしているんです。


 僕はにっこりと微笑んで見せながら、心の中で佐藤さんの言葉に応じた。


 僕は事務所の中をぐるっと見回す。

 事務所内には沢山のパソコンのディスプレイが並んでいる。今日、仕事をしているのは3人だけのようだが、他にも従業員が何人かいるのかもしれない。

 今は事務所の奥の方にあるディスプレイだけ電源が入っているようだ。ディスプレイには何か映像が映っている。

 僕はどんな映像が映し出されているのか見たくて目を凝らした。

 ディスプレイに映っているのは、見覚えのある女の子のキャラクタだった。


 あれは……


「……あれってアプリコットじゃない?」


 僕は遠くのディスプレイに目を凝らしたまま言った。


「お! 正解。高橋くん、アプリコットを知ってるのかい?」


 佐藤さんが嬉しそうに言う。

 その言葉に僕は頷く。


「はい、弟がファンなんです。大学の友だちも好きみたいで。それで知ってたんですけど……。じゃあYouTubeの撮影って……」


 僕はまさかと思い、言い淀む。


「そうだよ。この事務所は3Dモデリングを仕事にしていてね。アプリコットを使って、YouTubeでモデリング技術の宣伝をしてるんだ」


 佐藤さんが言いながら、僕たちをアプリコットが映し出されているディスプレイのほうへ誘導する。


「えええええええ! それって、みなさんがアプリコットの生みの親ってことですか?」


 僕は驚いて思わず叫ぶと訊き返した。

 訊き返しながら以前に大学でアプリコットの話になった際に『3DCGの制作会社が自社技術のプロモーションのために動画配信してるらしい』と雄太がアプリコットについて説明してくれたことを思い出す。


「ま……まあ、そうなるかな」


 僕のリアクションが予想以上だったらしく、佐藤さんは驚きながら同意する。


 雄太が言っていた3DCGの制作会社っていうのが、白川さんのお父さんの事務所ということだろうか?

 そういえば建物に掲げられた看板は『白川メディアグラフィクス』ってなっていたな。

 今思うと3DCGの会社っぽい名前だ。


 僕の予感はどんどんを確信に変わっていく。


 間違いない!

 ここが雄太の言っていた3DCGの制作会社なんだ!

 ここでアプリコットの動画が作られているんだ!


 僕自身は大してファンという事ではないけれど、周りのみんなが憧れる存在の制作現場に立ち入って、しかもそのクリエイターに会えたのだと思うとテンションが高くなる。


 雄太や恭平、奏人が熱を上げているバーチャルYouTuberの制作者が目の前にいて、しかもその制作現場に僕は立っている!


 実は他にも有名なクリエイターの知り合いがいないではないのだが、その知り合いの作品は僕や僕の周りの人間が見る様なジャンルのものではなく、あまり有名クリエイターと知り合いだという実感がなかった。

 しかし、アプリコットは違う。


 僕の友人や家族が熱を上げていて、僕自身も最近気になり始めている存在なのだ!


 そういう理由で僕は興奮せずにはいられなかった。


「アプリコットは僕たちが思った以上に人気が出てね。作った僕たち自身が驚いてるよ」


 そう言いながら、アプリコットが映るディスプレイの後ろにある黒いカーテンをもち上げて洋さんが現れる。高揚した気持ちのまま僕は洋さんを見た。洋さんの全身が僕の目に飛び込んでくる。


 ……何だかお昼を食べに来た時とは恰好かっこうがずいぶん違う。

 というか、かなり奇妙な恰好だ。


 予想外の光景に僕の興奮は一気に下火になる。


「……お邪魔してます。……その恰好」


 僕は挨拶しながら、洋さんの格好が気になって仕方がない。

 頭に、手に、腰に、足にベルトで小さな機械が取り付けられ、首にはアームで固定されたカメラが付いている。固定されたそのカメラは洋さんの顔に向けられているようだ。そんな洋さんの姿は、かなり異様な出立いでたちと言って差し支えないだろう。


「ああ、この恰好ね。ビックリしたかい? これから3Dモデルの動きを撮影するんだよ。この恰好はその準備なんだ」


 洋さんは自分の恰好が僕に見えやすいように腕を広げながら言った。


「何だか物々しいですね」と僕。

「そうでもないさ。ミュージックビデオみたいな動画を作る場合は、スタジオを借りて、演技モデルを雇い、モーションを何十台ものカメラで撮影するからね。それに比べれば、今日の撮影は簡易的なものだよ」


 そう言って、洋さんが笑う。

 洋さんが何を言っているのか1mmも理解できない。僕には十分物々しく見えるが、どうやら違うという事らしい。


「よし、じゃあ撮影を始めようか。高橋くん、ゆっくり見学していって」


 洋さんはそう言うと、先程洋さんが持ち上げながら出てきたカーテンを開く。

 カーテンの奥には広い空間があり、照明やカメラがあるのが見えた。照明とカメラの向かいには蛍光色の緑色の大きなパネル。こんな光景を僕は知っている。前に見たYouTuberの撮影の舞台裏を紹介した動画で似たようなものを見たことがあったのだ。

 これは動画の撮影スタジオそのものだ。


 洋さんは、カーテンを持ち上げたまま僕たちを手招く。撮影スタジオに入って良いという事らしい。


「ありがとうございます」


 僕は言いながら、カーテンの中に入る。

 綾辻さんと白川さん、それに佐藤さんも僕の後に続く。


「社長、撮影は7通目のお便りからです。ちなみに、このお便りがラストになります」


 野上さんが洋さんに声を掛けた。スタジオの奥を見ると、スタジオ内の隅でパソコンで何事か作業をする野上さんが見えた。


「了解! じゃあ、始めよう」


 洋さんはそう言って、緑色のパネルの前に立った。


「録画を始めました。では、どうぞ」


 野上さんが洋さんに合図する。


「じゃあ、7通目のお便り。お便りをくれたのは『まな板のネコ』さん。まな板のネコって……どういう状況のネコなんだろう?」


 野上さんの合図で、洋さんが大きな身振りをしながら喋りだす。だが、何か様子がおかしい。話し方も、仕草も何か変だ。僕は目の前で繰り広げられる事態が理解できず、混乱した。しかし、僕の混乱を他所よそに撮影は進む。


「これが本日紹介する最後のお便りだね。なになに、『僕は今までの人生で、彼女が出来たことがありません。どうすれば良いですか?』ね。なるほど……」


 洋さんは言いながら左手で右腕の肘を支え、右手の人差し指を頬に当てる。話し方も、仕草もまるで女の子のようだ。だが、目の前でそんな行動をとっているのは、髭を蓄えた中年男……。


「……これ……、何が始まったの?」


 僕はパニックになりそうなのを必死でこらえながら、隣にいる綾辻さんに小声で訊ねる。


「わーい。私、アプリコットの撮影の中でこの作業が一番好きなんだ」


 撮影中だというのに特に声の大きさを気にする様子もなく、綾辻さんが嬉しそうに言った。僕の質問の答えにはなっていない。


「大きな声出して、大丈夫?」


 僕は慌てて綾辻さんに小声で訊ねる。


 そんなに大きな声で話したら撮影している動画に声が入ってしまう!


「大丈夫よ。これは3Dモデルの動きと表情を録画して、セリフを決めてるだけだから」


 何も知らないのねとでも言いたそうな顔で、ふふんと笑って綾辻さんが言う。


「声は録ってないって事?」


 僕は小声のまま、確認する。


「まあ声は録れてるけど、投稿する動画には使われないの。声とか音楽はあとから入れ直すのよ。ちなみにおじ様自身を撮影しているわけじゃないから、おじさまの前を横切っても動きの邪魔をしなければ問題ないわ」


 綾辻さんが僕に説明してくれる。

 なるほど、では声を潜める必要はないんだなと僕は胸をなでおろす。前を横切っても良いという事はカメラで洋さんを撮影してはないという事だろうか。僕は洋さんの方を見る。そういえば照明設備があるのに洋さんに照明を当てる様子はない。綾辻さんの言う通り、洋さんを撮影しているわけではなさそうだ。僕は安心すると、一緒に入って来た白川さんと佐藤さんの様子を綾辻さん越しに伺った。

 白川さんは黙って洋さんのほうを見ている。僕と綾辻さんの会話に加わるつもりはないようだ。

 佐藤さんは洋さんの撮影風景とシステム手帳を交互に見ながら、何やら手帳にメモをとっている。仕事モードに入ったのだろう。


「ほら、野上さんの前にあるディスプレイを見てみて。今撮影してるのは、あのディスプレイに映っている映像なのよ」


 綾辻さんがスタジオの中にあるディスプレイの一つを指さす。

 野上さんはずっとその画面を見つめている。

 僕は邪魔にならないようにコソコソと野上さんの近くまで移動した。そして、野上さんが見ているディスプレイを覗き込む。


 そこには、先日奏人が観ていたのと同じ構図のアプリコットが映し出されている。僕は緑のパネルの前の洋さんとディスプレイに映るアプリコットを交互に見比べる。


「動きがシンクロしてる。洋さんが話すとアプリコットも口を動かすんだね」


 僕はようやく洋さんの奇妙な行動に合点がいった。

 アプリコットの動きを洋さんが作っているんだ。

 それにしても、中年のおじさんが若い女の子のキャラクタを演じる様はなかなかに強烈だ。


 ……今晩、夢に出てきたらどうしよう。


「どう? 杏が後悔したくなる気持ち、わかった?」


 綾辻さんが僕を上目遣いに見ながら、そう訊ねた。

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