第29話 白川さんのお父さん
僕は買い物袋から豆腐を取り出し調理台に持ってくると、シンク下の引き出しを開けた。引き出しの取っ手が取り付けられたパネルの裏には、包丁の収納スペースが据え付けられている。僕はそこから小ぶりな包丁を1本取り出す。もしかしたら果物用かもしれないが、豆腐を切るには十分だ。
僕はフライパンの隣に収納されていたプラスチックのまな板も取り出すと、豆腐を食べやすい大きさに適当に切った。
「沸騰してきた!」
丁度豆腐を切り終わったところで、白川さんが僕に声をかける。なかなか良いタイミングだ。
「じゃあ、この豆腐を鍋に投入して。そうしたら鍋が冷めるから、再沸騰するのを待って。沸騰したら、また声をかけてね」
そう言って、僕は白川さんにまな板に乗った豆腐を差し出す。
「火を止めたわよ」
間髪入れずに、今度は綾辻さんが声を掛けてくる。
「わかった。じゃあ、味をみてみよう」
僕は食器棚から小皿を摂り出し、スープの具合を確認する。少したまごを溶かし込みすぎた感はあるが、問題ない出来栄えだ。僕は綾辻さんからスープを混ぜるのに使っていたおたまを受け取った。受け取ったおたまで小皿にスープを少量注ぎ、彼女に渡す。味見は綾辻さんにお願いしよう。
綾辻さんは小皿を受け取ると、僕の意図が通じたようで小皿に口をつける。
「ちょっと……薄いかな?」
小皿から口を離すと、彼女は首を傾げながら感想を言う。
「じゃあ、塩を少し足してみようか」
僕は調味料のかごから塩の小瓶を手に取ると、スープに少量振り入れ馴染ませた。そしてまた小皿にスープを注ぐ。
「良くなった! 少し塩を足すだけでこんなに味が変わるのね!」
注がれたスープを口にして、綾辻さんが瞳を輝かせて言った。
「良かった! じゃあ、お椀に人数分
僕が頼むと、綾辻さんは嬉しそうに頷いて、お椀を取りに食器棚に向かう。自分で作った料理に満足しているようだ。何だかその様子が微笑ましい。同い年くらいの女性なのに恋愛的な感情というよりは、お手伝いをする子供を見守る気分に近い感覚に襲われる。なんとも不思議な心持ちだ。
「高橋君。再沸騰した!」
今度は白川さんだ。何となくそのまま綾辻さんを見守っていた僕は白石さんの声にハッと我に返る。
「……じゃあ、火を消して」
僕は気を取り直してそう言うと、白川さんが用意してくれたとろみ液の入ったボールを手に取り、先ほど麺を炒めるのに使った菜箸でボールのとろみ液を混ぜつつ、白川さんに近づく。
白川さんは僕の指示に従って、コンロの火を消す。
「とろみ液を僕が入れるから、全体にとろみ液が混ざるように、優しくかき混ぜて。豆腐は多少崩れても問題ないよ」
言い終わると、僕はフライパンの中にとろみ液を回し入れる。
白川さんがおたまで慎重にとろみ液をソースに馴染ませていく。
「混ざったみたいだね」
僕はフライパンを覗き込みながら言った。
「全然とろみがないわ」
白川さんは不安そうに言うと、眉を寄せる。
「再加熱するととろみが出るよ。さあ、火を付けてかき混ぜて。とろみが出たらマーボー豆腐の完成だ」と僕。
「そうなの? 良かった!」
白川さんは僕の『完成』という言葉で緊張の糸が
僕は食器棚の戸を開き、人数分のグラスと箸、それにサラダを取り分ける為の小皿をテーブルに用意する。
「とろみが出たよ」
白川さんが僕を呼ぶ。
「了解! じゃあ、麻婆豆腐は僕が麺の上にかけていくから、白川さんはグラスに飲み物を注いで」
僕は白川さんに近づきながら言う。
「いいわ」
白川さんはそう言って頷くとコンロの火を消し、僕におたまを渡すとフライパンの前を離れた。
僕は白川さんから受け取ったおたまで麺の上にマーボー豆腐を均等にかけていく。
「スープ、運び終わったわよ」と綾辻さん。
「ドレッシングが買い物袋の中にあるから、テーブルに出しておいて。あと、麻婆豆腐を麺の上にかけ終わるから、運ぶのを手伝ってくれるかな?」
僕が頼むと綾辻さんは気軽な調子で「オッケー」と言うと、買い物袋からドレッシングを取り出し、麻婆焼きそばをテーブルに運ぶのを手伝ってくれた。
僕たち3人は手分けして、テーブルのセッティングを進めた。
「こんなものかな?」
僕はそう言って作業していた手を止め、テーブルを見回す。昼食の準備は完了したと言って差し支えないように思う。
「今、何時?」と綾辻さん。
「12時25分!」
白川さんは元気よく綾辻さんの問いに答えると「間に合ったね。二人のおかげよ。ありがとう!」と満面の笑みで言葉を続けた。
僕と綾辻さんも頷きながら、白川さんに微笑み返す。
その時だ。
玄関が開く音がした。がやがやと話し声も聞こえ始める。下の事務所にいた人たちが居住スペースに上がってきたようだ。廊下を数人が歩く音がして、リビングのドアが開いた。
「杏。昼ごはんの準備、お疲れ様!」
そう言って最初にリビングに入って来たのは、口髭と顎髭を蓄えたがっちりとした体格の男性だった。
「うん! さあ、みんな入って来て。お昼にしましょう」
白川さんが嬉しそうに言う。
髭の男性に続いて、男性と女性が1人ずつ「お邪魔します」とか「良い匂い」と言いながらリビングに入って来た。二人ともまだ若そうだ。たぶんこの二人が従業員で、髭の男性が白川さんのお父さんなのだろう。
髭の男性が僕に近づいてくる。
「理沙ちゃんが言っていた昼食作りの助っ人というのは、君の事かな?」
髭の男性が微笑みながら僕に話しかけてきた。
「…はい。白川さんのお父さん……ですよね? お嬢さんと同じサークルの高橋と言います。ご挨拶もせずに上がり込んで、すみません」
僕は少し緊張しながら頭を下げて、自己紹介をした。
「僕は杏の父の
洋さんが右手を差し出しながら言う。
この手は……、握手するってことかな?
僕はおずおずと自分の右手を差し出す。
すると、洋さんは僕の差し出した手を力強く握り、ぶんぶんと振った。洋さんの気さくな人柄に触れて、僕の緊張は少し緩む。
「さあ! 挨拶はそのくらいにして、お昼にしましょう」
「賛成! 私、おなかペコペコ」
白川さんがそう言って僕らを促す。
綾辻さんがお腹が減ったという割には元気良く白川さんに賛同した。
僕が洋さんの手を離すと「高橋くんはこの席にどうぞ」と言って白川さんが椅子を引いてくれた。
僕は「ありがとう」と言いながら、席に着いた。
全員が席に着き、思い思いに昼食を摂り始める。
僕は洋さんの事務所の従業員の人たちと軽く挨拶をした。
男性従業員が
「この焼きそば、すごく旨いよ!」
佐藤さんが焼きそばを口いっぱいに頬張りながら言った。
「本当に! また食べたい味だね。杏、頼めばまた高橋くんがいない時でも作れたりするかい?」
洋さんが白川さんに訊ねる。
「うん。一通りやらせてもらったし、思ったより簡単だったから、次は一人でもなんとかなると思う。任せて!」
白川さんが食事をする手を止め、自信ありげに洋さんに微笑みかけながら言った。出来るだけ全ての工程に関わってもらって、手順を見せた甲斐があったな。彼女の様子を見て、僕は達成感に満たされる。
「こっちのスープも優しい味で、レタスがたっぷり入っていて食べ応えがあるわね」
野上さんが箸でスープの中のレタスを持ち上げながら言う。
「スープは私が一人で作ったのよ!」
野上さんの言葉に気を良くした綾辻さんが自慢げに答える。
「え? この前、炊飯器の使い方も分からないって言ってたのに?」
佐藤さんが透かさずツッコミを入れる。茶化しているのかと思ったが、その表情には本当に驚きの色が見て取れた。
佐藤さんは綾辻さんの料理スキルをある程度把握しているようだ。彼女は白川さんの友人という以上に、白川家や洋さんの会社の人と深く交流しているのだろうと想像がついた。
家の中を我が物顔で闊歩していることにも合点がいく。綾辻さんはこの家を自分の家のように感じているようだし、此処にいる人たちも彼女の事を家族のように思っているに違いない。僕は食事風景を眺めながら、そう感じた。
「余計なお世話よ!」
即座に鼻を折られてしまった綾辻さんはそう言うと、頬を膨らませる。
その様子を微笑ましく、他の人たちが見て笑う。
なんとも居心地が良く楽しい昼食時間になった。
「それで、杏と同じサークルという事は君も動画を作るのかい?」
僕の斜め左の席から洋さんが僕に話しかけてきた。
「実はまだ動画は作ったことがなくて……。今日、やっと動画用のパソコンを注文したところなんですよ」
僕はバツの悪さを感じ、頭に手をやると作り笑いをして答える。
洋さんに質問されて気づいたが、未だに一本も動画を作っていない事にコンプレックスを感じている自分が僕の中にいるらしい。心の中が少しモヤモヤする。
「そうかい。新しい事に挑戦するのは良いことだ。パソコンが届くのが待ち遠しいだろうね。実はね、僕も動画配信をやってるんだよ」
僕のバツの悪さなど知る由もない洋さんはニコニコしながら話を続けた。
僕も洋さんの言葉に笑顔で「そうなんですか」と頷いたのだが、ちょっとした引っかかりを覚えて思考停止する。
……ん?
動画配信?
「お、お父さん!」
白川さんが慌てた声で、洋さんの言葉を遮るように呼びかける。彼女の顔は少し引きつっていた。
「まあまあ、良いじゃないか。どうも杏は僕がYouTubeをやってることを友達に知られるのが嫌みたいでね」
そんな白川さんの様子をものともせず、洋さんが言葉を続ける。僕はまだ話が呑み込めない。
動画配信……
YouTube……
白川さんのお父さん……
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