第7話 良周のもう一つの事情
情報学概論の講義が終わり、昼食休憩に入った。
学生たちは学食に向かう人もいれば、講義室で弁当やコンビニで買ってきたのだろうサンドイッチやおにぎりを食べようとしている人もいる。
僕は隣の席で筆記用具を片付けている白川さんに声をかける。
「白川さんはお昼はどうするの? 学食?」
「今日はお弁当」
白川さんは片付けの手を止めて僕の質問に答えた。
これは好都合だ。
一緒に昼食を取りながら、
「じゃあ、ここで一緒に昼食を食べていかない? 僕も弁当なんだ」
僕はそう彼女に提案した。
「そうだね……」
白川さんは言い淀む。
彼女のその姿を見て、僕はハタと気づく。
今日初めて話した女性を昼食に誘うというのは、マナー違反だっただろうか?
僕は
だが急に
僕の焦りなど知らない白川さんは、机の上に置いてあった自分のスマートフォンを手に取ると、何やら打ち込み始める。
「私も高橋くんと話したいことがまだあるし、良いよ。でも、ちょっと待ってね。いつも一緒に食べてる友達に連絡しとかなきゃ」
彼女はそう言いながら、忙しそうにスマートフォンにメッセージを打ち込んでいる。彼女が言い淀んだのは友人の事を考えていたからのようだ。
そういえば、僕も最近はサークルのみんなと学食で昼食をとるのが日課になっていた。
「そうだ。僕も連絡しとかなきゃ」と僕。
僕らはそれぞれスマートフォンでメッセージを送るため、しばらく沈黙する。
僕らはほぼ同時にメッセージを送り終えた。そして二人して息をつく。妙なシンクロにお互い気が付いて、僕らはなんだか可笑しくなって一緒に笑った。
まだ初めて言葉を交わして数時間しか経っていないが、それなりに仲良くなれた気がする。
「じゃあ、食べようか」
僕が促すと、彼女は「そうね」といって、カバンから保冷バックを取り出した。
僕もリュックから自分の弁当を取り出す。
お互いに食べられる状態になったのを確認し、二人で「いただきます」と手を合わせて言った。それがなんだか先ほどのシンクロを想起させて楽しくて、また二人で笑った。大人しそうな人だと思っていたけど、よく笑う女の子だったんだなと、僕は白川さんへの認識を改めた。
「高橋くんのお弁当、美味しそう! お母さんが作られるの?」
彼女が僕の弁当を見て言った。
「今日は僕が作ったんだ」と僕。
「そうなの? すごい! 高橋くんって料理出来るんだね」
彼女は目を見開いて僕を見る。なんだか照れくさい。もしかしたら、耳くらいは赤くなっているかも知れない。
「そうかな? 白川さんのお弁当だって美味しそうだよ」
僕が言うと、今度は彼女のほうが頬を赤く染める。
「私のは母が作ってくれたから……」
白川さんは下を向いて恥ずかしそうに言った。
まずい、訊かなきゃ良かった。
僕は少し焦る。
「お弁当を作るって言っても、昨日の夕飯のおかずを多めに作っておいて、詰めるだけなんだけどね。朝は忙しいし」
僕は慌ててフォローを入れる。
「それって……」
彼女は顔を上げる。
「夕飯を高橋くんが作ったって事?」と白川さん。
「そう……なるかな……」と僕。
「高橋くん、夕飯も作るんだ!」
「家族で持ち回りでね。昨日が僕の当番だっただけだよ」
白川さんはまた「すごいね」と僕を見て言った。もう恥ずかしそうな様子はない。寧ろ彼女の目には僕への尊敬の色さえ見える気がする。
以前、雄太が料理の出来る男はモテると言っていたのを思い出す。白川さんの僕への印象を少しは上げることが出来たのかも知れない。
とにかく、先程までの気まずい雰囲気が吹き飛んだ。僕はホッと胸を撫で下ろす。
本来話したい内容を話せそうな雰囲気になって良かった。
しかも料理の話題!
僕がこれから話したい話題に繋げ易そうだ。
話題の誘導を始めよう!
「料理といえば、知り合いに僕なんかより上手い人がいるんだ」と僕。
「高橋くんのお母さんのこと?」と白川さん。
「うちの母さんの料理スキルは、僕とそんなに変わらないかな。残念ながら……」
僕の言葉に白川さんは「そうなんだ」と苦笑する。
良いぞ!
だいぶ場が温まってきた!
「じゃあ、高橋くんより料理上手って誰なの?」
白川さんが僕の求めていた質問を口にする。
僕は心の中でガッツポーズした。
「
僕は平静を装いながら、白川さんに伝えたかったもう一つの
白川さんが料理の話題を振ってくれて幸運だった!
僕は目指すゴールにたどり着いたのだ!
あとは、白川さんが状況を理解したことを彼女の言動で確認すれば、ミッション終了だ!
「……佐野くんって結婚してるの?」
彼女は驚いた様子で僕に質問した。
良かった、僕の言った意味を白川さんはしっかり理解している。
「うん。最初に通っていた大学で出会った人らしいよ」と僕。
白川さんはしばらく沈黙して、何か考えている様子だ。
仕方がないことだと思う。恋心を抱いた相手が妻帯者だったのだ。驚いて当然だろう。僕も大好きだったアイドルに恋人がいると芸能ニュースで知った時は、大いに落胆したものだ。今の白川さんは、その時の僕以上に衝撃を受けているに違いないのだ。
だが、これできっと彼女も
6歳年上の事実を知っても諦めなかった他の女子学生たちも、流石に既婚者と知るとそれ以上
白川さんもそろそろ自主的に棄権を選んだ頃に違いない。
流石に既婚者と聞いては百年の恋も冷めるだろう。
「白川さん、黙り込んでどうしたの?」
意地悪かな?
僕は少し迷ったが、彼女が何を考えているのか気になって、声をかけた。自分の作戦が成功したかを確認したくて、待ちきれなくなってしまったのだ。
「……思いもよらなかったから、……ビックリしちゃって……」
彼女は途切れ途切れに僕の質問に答える。
ショックを受けているようだ。だが最悪の場合、泣かれるかもしれないと覚悟をしていたが、それは無さそうだ。思ったより、心の強い人なのかもしれない。
「25歳なんだものね。結婚していてもおかしくない年齢よね」
彼女は表情を和らげ、ニッコリと微笑んで言った。
僕は混乱する。
この場面で何故笑えるのだろう?
今、僕は彼女の失恋の後押しをしたのだ!
全く笑えないシチュエーションのはずなのだ!
なのに何故、目の前のこの女性はこんなに屈託なく笑っていられるんだ?
僕は何が何だか分からなくなって、ひどく混乱した。
彼女はそんな僕の様子には気づいていない。講義室の時計に目をやると、僕に話しかける。
「話してたから、だいぶ時間が経っちゃった! 高橋くん、急いで食べちゃおう! 次の講義室に移動する時間が無くなっちゃう」
そういうと、白川さんは美味しそうに弁当を食べ始めた。
僕も「……う、うん……」と小さな声で相槌をし、弁当に箸をつけた。僕は弁当を食べながら、彼女の今の気持ちを読み解こうと、必死に頭をフル回転させていた。弁当を口に運んではいるが、全く味がしない。
これはどういうことなんだ?
彼女は一瞬、明らかにショックを受けたように見えた。なのに悲しみの表情は一切見せず、笑顔を僕に向けてくる。
あんなに真剣な顔で
これって……、奥さんがいても関係ないってことか……?
でも、こんなに真面目で良い子そうな白川さんが、そんな大胆な考えを持っているだろうか。俄かには信じがたい。
いいや、真面目な人だからこそ、この想い人に奥さんがいるという障害にも毅然と立ち向かおうとしているのかもしれない!
これは大変なことになってきたのではないか?
僕は昔観たサスペンスドラマの一場面を思い出す。確か、ドロドロの愛憎劇の果てに起こる殺人事件、そんな内容だった。
○警察署の取調室
刑事は容疑者の赤いメガネの女を睨み付けている。
赤いメガネの女は俯いてじっと机を見つめている。
刑事「どうして奥さんを殺害したんだ?」
赤いメガネの女「……」
刑事「黙ってないで何とか言ったらどうだ!」
ドン! っと机をたたく。
赤いメガネの女「……振り向いてほしくて」
刑事「何だと? 誰を振り向かせたいって言うんだ?」
赤いメガネの女「奥さんがいなくなれば、佐野くんはきっと私に振り向いてくれる! ……そう思ったんです」
赤いメガネの女は刑事を見て言うと、両手で顔を覆い、わっと泣き出す。
僕はこんな刑事ドラマにありがちな場面を思い浮かべた。背中に冷たい汗が流れる。
思い通りの展開になったと浮かれていたが、事態はとんでもない方向に向かっているのではないか?
僕は確認の意味を込めて、白川さんをもうひと押ししてみることにした。
「白川さん、
僕は必死に平静を装い、笑顔で彼女に話しかけた。
「びっくりしたよ! でも、そういうこともあるって思ったの」
白川さんはさっきと変わらない笑顔で応じる。
「そうだよね。奥さんと娘がいる人だっているよね。大学なんだし」と僕。
「えっ? 娘さんもいるの?」と白川さん。
「うん。僕も一度会ったことがあるけど、可愛い女の子だったよ。
「そうなんだ! 会ってみたいな。仲良くなれるかな? 佐野くんって、子煩悩そうだよね」
僕は白川さんのその言葉に戦慄する。
ここまで聞いても挫けないだと!
これは我が子でなくても子どもごと
大変だ! 白川さんは
昼食を食べ終わった僕と白川さんは一緒に次の講義室に向かうことになった。次の講義も同じものを選択していたのだ。
ちなみに僕は精神的なダメージが大きく、弁当を半分ほど残してしまった。
僕はとぼとぼと彼女の隣を歩く。
僕は彼女を諦めさせるための情報を全て出しつくし、途方に暮れていた。彼女がここまで手ごわい相手だとは予想もしていなかったのだ。しばらく心ここに非ずといった状態の僕だったが、天井に吊るされた『↑学生食堂』の看板を目にして我に返った。
……不味いことになった。
これは学食を突っ切るルートだ!
学食にはサークルメンバーがまだいるかもしれない。
もちろん
今はまだ、白川さんと
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます