第6話 良周の事情
白川さんにこれ以上、
ここは彼女が話出す前に、
これなら僕が彼女の思いに気づいているという事も、彼女は知らずに済むだろう。
それにこの事情を
誰かを傷つけないための嘘に罪はないと僕は思う。それでも嘘は少ないことに越したことはないだろう。嘘は綻び易いものだ。
僕は意を決した。
「
僕は思い切って一気にそう言い終えると、彼女の様子を窺う。
そうなのだ、
白川さんも驚いたに違いない。僕は彼女の反応を待つ。
「そう……なんだ……」
予想通りだ!
白川さんは目を大きく見開いて、途切れ途切れに僕の言葉に相槌を打った。
大人なら多少年上なくらい許容してしまうかもしれないが、つい先日高校を卒業したばかりの女の子にこの年齢差は許容できないのではないか。
事実、この話を聞いた時点で大半の
白川さんもこの年齢差に尻込みしてくれないだろうか。
僕がそんなことを考えていると、俯いたまま歩きながら彼女が口を開く。
「……学び直しね。最近はそういうことも必要だってテレビで言ってたわ。でも、なかなか実行に移せる人はいないとも言ってた……」
白川さんは自分に言い聞かせるように話す。そして僕のほうに向き直り言葉を続けた。
「佐野くんってすごいのね! 私ならそんな決断できないかも」
白川さんは目を輝かせる。
何てことだ……、逆効果だった。
むしろ
どうしたものかと僕が途方に暮れていると、タイミング良くチャイムが鳴った。
思わぬ助け舟だ。
講義が始まる!
のんびり歩いていた所為だ!
講義室はもう見えている。彼女との話も一端打ち切りざるおえない。
講義を受けつつ、作戦を立て直そう!
「白川さん、急ごう! 講義が始まる!」
僕は白川さんを急かす。白川さんは「そうね」と言うと僕に促され、慌てて歩みを速めた。
◆
僕と白川さんは隣同士の席に着いた。ちょうどその時、担当教授が講義室に入って来た。
「間に合ったみたい」
白川さんが悪戯っぽく微笑んで言った。
僕はその言葉に頷いて、微笑み返した。だが僕の心の中はそれどころではない。
僕は白川さんをを全く分かっていなかった!
白川さんは年齢などには囚われないようだ。
僕は彼女の思いつめた顔を思い出していた。
良く考えれば他人の前であんな表情をするほど
他の事実も提示しよう。
今度こそ彼女も諦めるはずだ!
ちなみに今までも年齢差ではへこたれない
講義が終わったら確実にこのもう一つの事実を白川さんに伝えるんだ!
そう決心した僕は隣に座る白川さんに目をやった。
彼女は真剣に講義をノートに書き留めている。真面目で勉強熱心な様子が見て取れた。
僕も講義に集中しなければ。
高い学費を払ってこの講義を受講しているのだ。
ふと、僕は経済学入門の講義で講師が話してくれた言葉を思い出した。
◆
経済学入門の最初の講義時間、講義の担当講師が騒がしい講義室を見回しながら言った。
「みなさん、入学おめでとう」
講師が話を始めると騒がしかった講義室が少し静かになる。
だが、まだ少し騒がしい。
このような雰囲気には慣れているようで講師は僕たちに背を向けるとホワイトボードに何か書き始めた。
『機会費用』
ホワイトボードにはそう書かれていた。
講師は僕たちのほうへ向き直ると話を続ける。
「講義に入る前に質問したい。みなさんは機会費用という言葉を知っているだろうか? 知っている人は挙手して」
講師は自分も挙手の動作をしながら、講義室を見回す。講義室は静まり返る。
もちろん僕も手を上げる気はない。機会費用が何なのか知らなかったし、知っていたとしても挙手したくない。海外ではどうか知らないが、日本社会では目立つ行動をすることを嫌煙する傾向があると僕は思う。
しかもまだ入学したてで、周りは見知らぬ人ばかりだ。どう振る舞うのが最良なのかを僕はまだ判断しかねていた。僕は周りを見回し、他の学生の反応を探った。
そして僕は一人の男子学生が挙手しているのを見つけた。
講師も気づき、挙手している学生に話しかける。
「はい、では君。立って。名前は?」
「
学生が立ち上がって答えた。
「では佐野くん、機会費用について説明してみてくれるかい?」と講師。
もうお判りだと思うが、この佐野という学生は
「先週の金曜日、バイトのピンチヒッターを頼まれました。でも、その日は観たかった映画の地上波初放送の日でした」
彼は何を言っているんだ?
僕は唖然とした。他の学生たちもざわつく。
しかし、
「バイトに行けば夜は時給1000円もらえます。僕は映画を観たかったのでバイトを断りました」
そう言うと
テレビを観るためにバイトを断った話のどこが用語の説明なのか?
他の学生たちも僕と同じように感じたのか、そこかしこからくすくすと忍び笑いが聞こえてくる。
僕は他人事ながら冷や冷やした。大勢の他人の前で発言した彼の勇気には敬服するが、これでは説明になっていない。恥のかき損だ。
「なるほど少し説明足らずだが、君が機会費用を理解しているのは判った。ちなみにバイトに行っていれば何時間働く予定だったっんだい?」と講師。
「3時間です」
僕は驚いた。
講師はホワイトボードを向き直ると
ちなみにもう少し深く突き詰めると、断ったことが切欠となってバイトを辞めるなどと言うことになれば、3000円どころの話ではなくなる。考えれば考えるほど損失は増えるのではないか? と僕は思う。キリが無い。
「この3000円が彼がテレビを観るための機会費用と考えて問題ない。つまり機会費用とは、同じ期間の中で利益を生む選択肢があるにも関わらず、それを選ばないことで逃した利益を損失とし、費用と考える経済学の概念なんだ」
講師の説明を聞きながら、僕は昨日4時間ゲームをやっていた事を思い出す。
何だか勿体ない時間の使い方をした気がしてきた。
「さて、この機会費用の概念を君たち大学生に当てはめてみよう。君たちはこれから4年間を学生として過ごすことになる。自分たちが4年間でいくら学費を払うかわかっているかい?」
講師はそう言うと「口に出さなくて良いよ。頭の中で思い出すだけで良い」と続け、肩をすくめて見せた。学生たちの間から小さな笑いが漏れる。
「では君たちは大学に進学していなければ、どうしていただろう? 高校を出て就職していたかもしれない。そうだな、仮に1ヶ月に20万円の給料をもらえるとしよう。大学生活を4年間と考えると48ヶ月。君たちが大学で学ぶ時間を労働に当てれば960万円稼ぐことが出来る。もちろん就職していれば、4年間分の学費もかからない。よって君たちは1000万円以上の機会費用を払ってここにいることになるわけだ」
講義室がざわめく。
ここにいる殆どの学生にとって1000万円は大金のはずだ。もちろん僕にとっても。
ゲームをして4000円払ったのかと落ち込んでいたら、そんなものは小さな損失だったようだ。
僕の大学生としての4年に、1000万円もの価値があるなんて!
僕はこの大学で学ぶことによって、1000万円もの価値を見いだせるだろうか。
……難しい気がする……
講師は僕たちの反応を確認するように講義室を見回した。
「では、前置きはこのくらいにして本来の講義を始めよう。今の話を聞いてもお喋りがしたい人はどうぞそのまま続けて。大変費用のかかる井戸端会議になるだろうが、私は止めない」
講義室は静まり返った。
その講義の間、無駄口を叩く学生はほとんどいなかった。
その後、僕は
「機会費用なんて良く知っていたね」と。
すると
受験から解放されて、バイトや遊びに時間を割きがちになる学生は多い。そんな学生に大学に何をしてきたのかを改めて思い出させるために良く使われる話なのだそうだ。
◆
物思いに耽る時間にするには、大学の講義時間はあまりにコストパフォーマンスが悪すぎる。
僕は気持ちを切り替え情報学概論の講義に集中する事にした。
白川さんのことは、なんとか休憩時間に解決しよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます