天使たちのいる時間

Scene.42

 天使たちのいる時間


 憂鬱な顔で、イルゼは綿菓子みたいな空を見上げた。

 あの時と同じ雨の日。雪へと変わる前の、冷たい雨の日。あの日と同じ空の色。屋根に堆積した雪が滑り落ちる。雨に溶ける街の中、深く沈黙するキッチンストリート。ウサ耳フードを目深に被った白兎。目の前には、黒い天使。薄い霧が、辺りに立ち込めている。

 白い氷の上の、灰色の水鏡は彼女たちの姿の上に波紋を重ねている。

 別にどうだって良かった。未来だとか、世界だとか、そういう話。自分には関係の無いことだと思っていた。自分の好きなように生きていけると思っていた。けれど、身勝手でワガママで不器用な天使は押し付けてきた。全力で押し付けて、無理矢理握らせて、そのまま自分勝手に飛び去った。

 その天使は微笑み、イルゼを見つめて囁く。

「もう少し、遊びましょうか。ウリエル」

「その名前、やめてくれない?」

 白兎が雪を蹴った。雨に濡れて重くなった雪が弾ける。

 氷上に佇む黒衣の天使へ、真っ直ぐに走りながらイングラムとシュマイザーの銃口を向ける。銃声と共に降り注ぐ鉛弾の雨の中、ルシファルがその巨大な黒鎌を振り上げた。咄嗟にイルゼは半身を逸らす。彼女の真横を刃が通り抜けた。

 天使と白兎が交差する。

 爪先を返したイルゼの瞳には、黒い天使の背中が映った。すかさずマシンガンのトリガーを絞った。銃弾を受けても尚、振り向いた天使は鋭い風切り音と共に大鎌を真横へと凪ぐ。イルゼはその鋭利な刃を後方へ宙返りすると同時に蹴り上げた。

 がらんどうになった懐へ、白兎は惜しみなく銃弾を撃ち込む。

 雨の混ざる雪に、赤い斑点が滲んだ。

 天使の傷口は直ぐに癒えてゆく。白兎と同じように。

「余所見してんじゃねェーよ」

「ごめんなさい。少し退屈で。もう少し、おもしろいことしてくれないかしら」

「あんたは金払いが悪いんでね」

「じゃあ、とっておきをあげるわ」

 ルシファルの右手は黒い鎌の柄を掴んだ。その柄に巻かれた鎖を解き、自らの右腕に絡ませる。

 そして、堕天使はそのまま一気に上空へと飛び上がった。

「またそれかよ」

 あの時と同じ、変わり映えのしない空。灰色の背景に現れた一点は落下を始め、その存在を大きくすると共に、分厚い氷の鎧を纏った大地さえも、御自慢の大鎌で深く切り裂く。

 落下した衝撃で雪が舞い上がった。

 その白に包まれた視界の中に、マシンガンの銃声が轟いた。黒い大鎌を右手にルシファルがその中へ斬り込む。刃が空を切った。そこへ手榴弾が転がり込む。

 炸裂した。轟音が響き、再び、雪が舞い上がる。その爆風さえも切り裂いた刃は、白兎の左手のシュマイザーを捉えた。ショッキングピンクの銃身が容易く切り裂かれる。

 イルゼは困ったように、それを見つめた。

「あーあ、お気に入りなのに!」

「ごめんなさい。腕を切り落とせば壊れなかったかしら」

「……らしくねェーな」

 毀されたシュマイザーを投げ捨て、イルゼはイングラムのマガジンを取り替えた。そして、コートの中から黒い刀身の、十字架を象った長剣を引き抜いた。

 その剣の柄をシュマイザーのグリップの代わりに握る。

「それ、まだ持っていてくれたの?」

「いつか、あんたの墓に突き刺そうと思ってね」

 イルゼが黒い剣を構える。その真っ直ぐな切っ先は、黒衣の天使を指している。

「そろそろ終わらせよう」

「そうね。私も飽きてきちゃった」

「何しにきたんだよ」

「ねえ、ウリエル。神を信じる?」

「あんただけな」

「やっぱり、愛してるわ」

「クソッタレ」

「そんな言葉、教えたかしら?」

「保護者面すんなよ」

 大鎌の刃先から、雫が落ちた。黒い天使と白い兎が衝突する。

 刃を向き合う二人の表情は笑っていた。その雪の上の劇場には、金属音と、銃声だけが絶えず響いている。その芸術的な演出に、時さえも魅入っていた。空は泣くとこをやめていた。白い雲の隙間から、淡く光が差し込む。

 そして、世界は誰もが望んだ結末へと進み始めた。

 大きく左足を踏み込んで、大鎌を振るう。その刃を避けてしゃがんだイルゼの顔面を膝が襲った。寸前で身を逸らし、そのままルシファルの右脇腹へ斬りつける。鮮血が雪の上に散った。

 しかし、深手を負いながらも、ルシファルはイルゼの右腕を掴んだ。堕天使の右腕から抜け出た鎖が、白兎の腕を絡め取る。次の瞬間、彼女の真っ赤な瞳には、無慈悲な刃を振り下ろす黒い天使の姿が映っていた。イルゼは右胸から左の脇腹までを、深く切り裂かれる。

 鮮血がルシファルの顔に散った。その血を指でなぞって、舐めとる。

 天使は真っ赤な真っ赤な眼球をうっとりと細めて微笑んだ。

「痛いね……」

「そうね」

「血も出てるし」

「ええ。たくさん」

「最近、貧血気味なんだよね」

「ダメじゃない。好き嫌いしちゃ」

「だから、保護者面すんなよ」

 イングラムのトリガーを引く。咄嗟にルシファルがイルゼの腕を放して飛び退いた。

 しかし、鎖はイルゼの腕に巻き付いたまま。イルゼがその鎖を引く。

 刹那、イルゼが十字架を体勢を崩した天使の腹部に突き刺し、その柄の先端を蹴り飛ばす。雪の上に、赤い血を撒き散らしながら、黒い天使が転がった。

 白い雪に手をついて、黒い血を吐く。彼女は自らを貫く十字架を引き抜いた。同時に傷口からは血が溢れ出す。ルシファルの傷は塞がることなく、血を流し続けていた。それでも黒い鎌の柄を掴んで、立ち上がろうとする。しかし、フラフラとまた地に膝をついて仕舞う。それでも尚、あの緋色の瞳は、彼女が生まれた頃の様に、強く輝いていた。

 右手に銃を下げて、ゆっくり、と、真っ赤な瞳の兎は堕天使の元へと歩み寄る。

 恨んだことは一度もなかった。解っていたから。

 一番やさしい家族だってことくらい。

 だから、私を突き放したことも……。

 最初から、理解していた。

 イルゼが堕天使を抱きしめる。その時、初めて、堕天使は頽れた。

「限界みたいだね、それ」

「……みたいね。でも、これでいいのよ。人はみな、この世に来た時と同様、この世を去る時もまた、ただ黙って耐える他ない。機の熟すことこそ、すべてなのよ」

 黒い天使は幽かに笑った。

「これで満足だろン。余生はどっかで静かに暮らせば?」

「それもいいわね。でも、もう生きたくないの。何も見たくないの。こんなクソッタレな世界なんて。一秒だって、もう……」

「姉さん……」

「ねえ、パセリとセージとローズマリー、それからタイム。貴女は知ってるかしら?」

「は?」

「フフ、懐かしい……。おまじないらしいわ。信じていれば、きっと、誰にも負けない。神様にもね」

「いや、意味わかんない」

「イルゼ。クロエとリーゼのこと、頼んだわよ。それだけ我慢して。お姉ちゃんなんだから」

「やっぱり、姉さんは自分勝手だね。お姉ちゃんのくせに。意味わかんないし」

「自分の好きなことをするためには、同じだけ嫌なことをしなきゃいけないわ。もう私は十分よ……。次はあなたの番」

 イルゼが笑う。

「……わかった、何とかするよ。約束する」

「昔から貴女の素直なところは好きよ」

「よしてよ」

「じゃあね、イルゼ。あまり好き嫌いしちゃダメよ? 何でも食べなきゃね」

「わかってるよ」

「……ありがとう」

「バイバイ、姉さん」

 ――それくらい知ってるよ。いつも、寂しそうに歌ってたから。スカボロー・フェア。姉さん、独りになると歌ってたから。ねえ、あの時、何で姉さんが泣いてたのか。

 イルゼの腕の中から、その天使は飛び立った。

 黒い翼を広げて。

 灰色めいた空の雲間に覗く、青い空へ。

 独り残された街の片隅で青い空を眺めながら、何度も聞いたあの歌を白兎は口ずさんでいる。

 ――今ならわかる気がするよ。


 氷の都トロイカ。

 真っ白な雪原の中に浮かぶ街で、過去は歴史へと変わってゆく。しかし、誰もその結末を知らない。未来なんて、世界なんて、それでいいのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る