夏が終わる

海蘊 藻屑

夏が終わる

「今日は火の球を取りに行くよ」ある日突然パパが言った。


「火の球」は、私の村ならどこの家にでもある、光る球体だ。

手のひらに乗るくらいの大きさで、強い光と熱を放つ。

たいていの家では専用のガラス瓶に入れてあって、それを天井から吊るして部屋の明かりにしたり、木の根の切れ端をかざして火をつけたりする。私の住む村は土を深く掘った洞窟の中にあったので、パパと一緒に外に出かける時はいつも、ガラス瓶に取っ手をつけたランタンを持っていった。


友達が言うには、火の球は長い時間をかけて少しずつ力が弱まっていくものらしい。

それを聞いた時、私は自分の家の火の球をじっと見つめてみたのだけど、何日たっても変わらず光と熱を放ち続けていた。

そして今も変わらず、部屋の真ん中にぶら下がったガラス瓶の中で、光と熱を放ち続けている。


火の球を取るには村の外に行かないといけない。

パパは、「時間軸が交わる時じゃないと火の球は取れない」と古びた懐中時計を見ながら言った。

詳しいことは分からないけど、特別な条件が揃わないといけないらしい。

そんなことより私は、村の外に行くのが初めてだったので、急いで出かける支度をした。

リュックサック(ママが生きていた頃にずっと使っていたものだ)に芋を練って焼いたパンと、甘い草の根と、水筒と、木の根を編んだロープ(これは短く切って火種にもなる)、それと固い木の根の棒(杖にしたり、地面から生えた木の根を払ったり、いろんなことに使える便利な道具だ)を詰め込んだ。

私が旅支度を終えた頃、大きなリュックサックを背負ったパパが天井からぶら下がっているガラス瓶を下ろし、取っ手をつけてランタンにした。

家を出て、ふと振り返ると、明かりを失った私の家の中は真っ暗だった。

なんだかまるで、もうここには帰ってこれないような気がして、私は、ドアの隙間の向こうに見える暗闇にじっと目を凝らしていた。

「行こう」

パパはドアを閉め、鍵をかけると私の背に手をかける。

パパの手に押し出されるようにして、私は歩き出した。



村のはずれまで来ると、並んだ家の窓から漏れていた明かりも遠ざかり、辺りはほとんど真っ暗だった。

私は明かりを持ったパパにぴったりくっつくようにして歩いた。

やがて私とパパの前に、暗いトンネルの入口が現れる。

私は生まれてから今まで、ここより先に行ったことはなかった。

パパがトンネルに明かりをかざすけど、光は奥まで届かず、闇がずっと向こうまで続いていた。

それを見て身震いした私にパパは笑って「やっぱり留守番してるかい?」と聞いた。

本当は帰りたくて仕方がなかったけど、火の球のない真っ暗な家に帰るのはとても怖かったし、火の球を私が持って帰ったら、ここから先パパが明かりを持たずにこのトンネルを進むのかと思うと、それもとても恐ろしいことに思えて、私は、迷いながらも首を縦に振った。

そんな私を見たパパはもう一度笑って「人間の世界に行けるのは、時間軸が交わった時だけだから、せっかくだから見ておいた方がいいよ」と言い、私の手を握った。

私はパパに手を引かれて、トンネルの中へと足を踏み出した。

パパと手を繋ぐのは、幼い頃、ママが亡くなったころ以来だった。



トンネルの中では、パパの持つ火の球だけが唯一の明かりだった。

私はパパの大きくて乾いた手を握りながら、そろそろと歩いていった。

トンネルに入ってから私は一言も口を聞いていない。

パパも黙ったまま、私の手を何度も握り直しながら歩き続けた。


「意外と長いな」

随分経ち、そろそろ何か話した方がいいかなと私が思い始めた頃、パパがぽろりとつぶやいた。

私やパパの祖先、どのくらい昔か分からないほど昔の人々が掘ったと言われるトンネルの、でこぼことした壁と地面と天井が、緩やかにうねりながらずっと奥まで、どこまでも続いていた。

「パパも、ここに来るのは子供の頃以来なんだよ」

パパが言った。

私は黙ったままパパの後を歩き続けた。

「パパも、お父さんに連れられてね。とても恐ろしかったのを覚えているよ」

私が手のひらにじっとりと汗をかいていることを気にもかけていない様子で、パパは私の手を握り続けた。

「お前も。次ここへ来る頃にはもうすっかり大人だな。もしかしたらおばあちゃんになってるかも知れない」

私の頭にふと、自分がおばあちゃんになった姿が浮かんだ。

私のおばあちゃん、ママのママは、私の家の3軒隣に住んでいて、あまりに長い年月が蓄積して周りの事はあまり分からない様子だったけど、いつも火の球のガラス瓶のそばに座って暖をとりながら、色とりどりの毛糸でマフラーや帽子を編んでいた。

私は、カラフルなセーターや帽子やマフラーに埋もれて、家の隅にこじんまりと座っている、年老いて小さくて顔や手の甲に皺が刻まれた自分を想像してみて、なんだかおかしくて笑ってしまった。

パパはそんな私を見てまた笑って、そしてまた私の手をぎゅっと握りなおした。

パパの掌が温かい。

私はパパの手を握り返して、緩やかに起伏し続ける土の上をてくてくと歩いていった。



さらにしばらく歩いた頃、火の球の光がゆらゆらと揺らいだ。

「時間軸の交点が近いから。時間の流れ方がまばらなんだ」

パパが不安そうに懐中時計を取り出して言った。

トンネルの内側を橙色に照らしていた光は、さらに歩みを進めるにつれて弱まったり、また少し強まったりを繰り返しながら少しずつ力を失っていった。

「そろそろ出口か」

そう呟くパパの顔は先ほどよりだいぶ暗くなっており、表情がよく見えない。

消えゆく光を反射して、パパの目だけがキラキラと揺らめいている。

やがて光はおぼろげになり、そして音もなくふっと消えた。

私とパパだけが、全く光のないトンネルの中に取り残された。

「パパ」

「大丈夫」

痛いくらい強く握られた手の感触だけがパパの存在を感じさせた。

「ねえ」

「大丈夫」

パパは歩みを止めて、息を殺してじっとしていた。

私もパパを真似るように、立ち止まったまま暗闇を見る。

自分の鼓動と呼吸の音が、身体の内側から聞こえてくるようだった。

「ほら、見てごらん」

しばらくののち、パパがそう言った。

その時、パパの黒い輪郭がトンネルの中におぼろげに見えることに気づいた。

「あっち」

パパの黒い指先が、暗闇の一方を指す。

その指の先、はるか遠くの方、うっすらと、わずかに明るい闇が見えた。

トンネルの出口だった。

「行こう」

歩き出したパパについて、私も再び歩き始めた。



トンネルを抜けると、今まで私が見たこともないような、茫漠とした空間がそこにはあった。

細かい砂が敷き詰められた地面がずっと続き、そのさらに先には黒々とした地面があった。

そして私たちの頭上も、闇に覆われ、その闇の中には小さく消えそうな白い光の粒が、まばらに瞬いていた。

トンネルの中と違って、ぼんやりと明るい闇だった。

黒い地面と、黒い天井は、はるか遠いところで接しており、その境界にうっすらとした直線が見えた。

パパが、黒い地面は「うみ」と言い、黒い天井は「そら」と言うのだと教えてくれた。

「そら」に見える光の粒は「ほし」と言うのだという。

パパも、ここへ連れてきてくれた自分の父から、教わったのだそうだ。

「ほら、あれが人間だよ」

パパが指差した方を見ると、私たちよりも何百倍も背の高い人間が2人、砂の上にそびえ立っていた。


私とパパは、人間のそばまで砂の上を歩いていった。

人間の足元にたどり着き、そこから見上げると、人間の背の高さがよりいっそうはっきりと分かる。

「本当は人間も動くんだよ。我々とは時間の流れが違うから、止まって見えるだけで」

パパはそう言ったけど、私にはにわかには信じられなかった。

そんな私の気持ちに気付いたようで、パパは「まあ、パパも動いてるところは見たことないんだが。でも、前来た時とは位置が変わってるから、きっと動いているんだと思う」と照れたように付け足した。

「あった、火の球だ」

パパが、はるか頭上の人間の手元を指差す。

目をこらすと、人間の手から長いロープのようなものが垂れており、その先に、煌々と光る火の球がぶら下がっていた。

パパはガラス瓶を取り出すと、先ほど消えてしまって黒くなった古い火の球を足元に捨てた。

「あれを取りに行こう」

そういうとパパは人間の、家10軒ぶんくらいある大きな靴に手をかけた。



火の球のそばに行くには人間の服を登って行かなければならず、なかなか大変だった。

私とパパは、なるべくつかまりやすい縫い目のある部分を選んで、頭上はるか高くまで続く人間のズボンを、長い時間をかけて登っていった。

時折、服の皺の深くて平らなところを見つけては休憩して、水筒に入れてきた水を飲んだ。


ズボンを登りきり、シャツに渡るときは木の根のロープが役に立った。

パパがロープを持ってシャツに飛び移ると、私に向かってロープの端を投げてくれた。

私はそれを受け取ると、ロープを伝ってシャツに飛び移った。

シャツの縁から下を覗き込むと、これまで登って来たズボンのはるか下に砂の地面が見えた。

急にその高さを意識して震えた私を見て、「あんまり下を見ない方がいいよ」とパパが言った。

「先に言ってよ」

私が笑うとパパも笑って、「ご飯を食べようか」と言った。

私とパパはお弁当を広げて、芋のパンと甘い木の根を交互にかじる。

なんだかその味がとても懐かしいものみたいに思えて、ふとパパを見ると、パパも甘い木の根の隅をちびちびと齧りながら、黙ってはるか遠くの方を見ていた。


ズボンを登るのと同じくらいの時間をかけてシャツを登り、そこからは袖を伝って緩やかに傾斜した腕を下り、ようやく人間の手にたどり着いた。

火の球がついたロープは、人間の2本の指の間から下に向かって垂れている。

爪の上に立ち、ふと振り返って人間の顔を見上げると、その目がじっとこちらを見つめていることに気づいてゾッとした。

パパは私の肩にそっと手を置き、「きっと火の球を見ているんだよ」と言った。

人間の目ははるか頭上に黒々と静止して何も映さずに光っており、私は目をそらせなかった。

「ほら、もう見ないで。火の球のところまで下ろう」

パパに促されてようやく私は目をそらし、火の球のついたロープにつかまった。


そこから火の球までは、ロープにつかまりながら滑り降りていくだけなので楽しかった。

少しずつ火の球が近づいてくるのが分かる。

私とパパはあっという間に火の球のそばまでたどり着いた。

火の球が発する熱で、足元の方がほのかに暖かい。

うちに長い間置いてあった火の球に比べて、光も熱もずっと強いようだった。

パパと私はロープの終点の少し手前で一度止まり、固い木の根の棒をロープに突き刺すようにして足場を作った。

火の球はロープの先にあるので、この足場に足をかけて身体を下に乗り出して、足で体重を支えながら火の球を取るのだ。

パパは空のガラス瓶を手に、火の球の方へと身を乗り出す。

私はパパが落ちないように、パパの両足を必死で押さえた。

パパの体は少しの間ぐらぐらと揺れて心許なかったが、やがて火の球のそばで止まると、ガラス瓶を持った手をいっぱいに伸ばして、火の球を空中からすくい取るようにしてガラス瓶に入れた。

パパはすかさず上半身を起こして私にガラス瓶を渡す。

「蓋を」

受け取ったガラス瓶は強く光り、ずっと手にしていると熱いくらいだった。

私が急いで蓋をしている間に、パパは体勢を直してロープにつかまり、私と同じ高さまで登って来た。

蓋を閉め終えた私は、パパと一緒に、瓶の中で煌々と光る火の球を見つめた。

「綺麗だ」

パパの顔は強すぎる光に照らされて夜の闇に浮き上がり、晴れやかに見えた。

私は何も言えず、ただ、ガラス瓶の中で煌々と輝く火の球を見つめていた。


私とパパは辿って来た道を引き返し、地面へと戻った。

来た時よりも長い時間がかかったはずだけど、一度通った道だからかそれほどには感じなかった。

それでも、再び地面に足をつけた時には、まるで生き返ったかのような不思議な心地がして、私は砂の上にへたりこんだ。

「そろそろ時間軸の交差が終わる。少し急ごう」

懐中時計を覗き込んでパパが言った。

私とパパは砂の上を歩き、トンネルの入口へと戻った。

トンネルに入る間際、私とパパは振り返り、暗い砂浜と海と空と星を見た。

「もうこの景色を見ることもないのか」とパパが言う。

高くそびえる2人の人間も、今は少し遠くなり、さっきより小さく見える。

今度この景色を見る時、私はどうなっているのだろう。

本当にしわしわのおばあちゃんになっているかもしれない。

そんなことが一瞬頭をよぎったけど、「行くぞ」というパパの声に促されて、私は再び、暗いトンネルの中を歩き始めた。

取ったばかりの火の球はガラス瓶の中で力強く輝き、私とパパの足元をずっとはっきりと照らした。


* * * * * * * * * *


「あれ。今、落ちた?」


凛花に言われて修介は手元を見る。


そうは見えなかったが、確かに火が消えていた。


「もう一本やろうか」


凛花が残り少ない花火の袋をごそごそしだす。


修介は何も言えずに凛花を見ていた。


「あった。これが最後だね」


凛花は手にした線香花火にマッチの火を近づける。


静かにぱちぱちと小さな火花が散りはじめる。


修介は、その光にまばらに照らされる凛花の横顔を見つめていた。


線香花火を見つめて微笑む凛花の、夏休みの間に少し伸びた髪が、夜の潮風に揺れている。


もうすぐ夏が終わるのだ。

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