Buona sera

橙 suzukake

     

 


 間歇かんけつワイパーの間隔をどうしたらいいか迷うくらいの雨の降り方だった。

 出掛けに買った缶コーヒーを左手でホルダーから持ち上げてみると、これまた微妙な重さだった。口に当てて飲んでみると、案の定、もう1本買いたくなるような物足りない喉越しだった。

 間歇ワイパーの間隔に悩むのをやめて、たぶん、後ろにいる車のドライバーからは「神経質な奴だな」って思われるくらいの間隔のままのワイパーにしてしまい、缶コーヒーをもう1本買うのもやめることにして、その代わり、バックミラーがその振動で使い物にならないくらいの音量で音楽を聴くことにして残りの数キロを走ることにした。


 前の車の後ろのガラス面には、“Baby in Car”のステッカーが貼ってある。よくできたもので、俺の目線の高さにあつらえられている。“事情はとてもわかる”のだが、遅い。とてつもなく遅い。なぜ、この時間に、この道路を、そのステッカーを貼って、俺の前を走っているのか車を降りて尋ねたいくらいに、遅い。

 下水道工事か、ガス管工事かわからないけど、年度末に申し訳なさ程度に補修したアスファルトはギャップだらけだった。その小さなギャップひとつひとつを丁寧に確かめるかのように“Baby in Car”は走る。俺は、世界中の人たちに理解のあるような顔をして、理解のあるようなアクセルワークをして、そして、心の中の悪魔と対面しながら数キロを過ごした。


 初めての人なら絶対に曲がらないような小路を右に曲がって、しばらく行ったところの「犬の糞を持ち帰らない飼い主は犬を飼う資格はない」と直筆された紙が貼ってあるブロック塀のところを左に曲がって、駐車場に車を停めたときに、ようやく、苛立ちから解放された。車のキーを回してエンジンを止めると、それまでの擦り切れるようなギターの爆音も止み、その静寂に耳を澄まさずにはおれない空気を感じることができた。

 

 なにも、急いで来る事情はない、のだ。

 

 相変わらず開けにくい二つの鍵を苦労して開けて、誰もいない部屋の玄関に入ると、さっきまでドア越しで不安げに鳴いていた猫の姿はなかった。靴を脱いで廊下に上がると、ベッドが置いてある部屋の方からまた不安げな鳴き声が聞こえ始めた。


「Ciao ! 元気にしてたかい?」

 

 俺は、ベッド下の隅のほうで二つの目だけ黄色く光らせて座っている猫に腹ばいになって声を掛けた。


「ニャー」


「だってしょうがないだろ、お前のご主人様はここから9千キロも離れたところで、今頃エスプレッソでも飲んでるさ」


 

 止まない鳴き声の中、事前に頼まれていた通り、俺は、トイレの掃除と餌と水の補給をした。

 トイレは、思っていたほど汚くなく、以前に俺が飼っていた猫よりもはるかに上品で控えめな便だった。餌は、食べ慣れていない新品の方は残っていて、動物病院からいつも買っているという一袋4千円もする餌の方の皿が空になっていた。

 俺は、散らばっている新品の餌を皿に入れなおし、4千円の餌を空いている二つの皿に大盛りにして入れた。

 水は、思ったほど減っていなかったが、新しい水と交換した。

 

「便秘になると悪いから、水もちゃんと飲みなよ」


「ニャー」


「“さようなら”はなんて言うんだっけ。やっぱ、Ciaoかな」


「ニャー」


「“ニャー”じゃないことは確かだよ」


「ニャー」


「お前も、あと4日も外に出れなくて暇だろうから、Ciaoの練習しとけよ。ご主人様が帰ってきたら、ちょっとは拗ねてもいいけど、Ciaoって言ってあげると喜ぶと思うよ」


「ニャー」



 帰り際に、油性ペンで走り書きしてある置手紙を小さな冷蔵庫の上に見つけた。

トイレの惨状を憂い、汚物の始末の仕方などが書かれていた。最後に、帰国したら旅行の土産話を沢山聞いてほしいとあった。

 少し迷ったけど、返事は書かずに、もう鳴き声のしない部屋を後にした。


 この時間なら、“Buona sera”。

「こんばんは。猫は淋しそうだけどだいじょうぶ。俺が返事を書くと奴がジェラシーでもっと淋しくなってしまうような気がしてやめといたよ」

 

 雲の合間の小さな青空に向かってそうつぶやいて、エンジンキーを回した。

 爆音が車内に轟く前にボリュームボタンを下げるのを忘れていなかった自分に少し満足していた。




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