番外編:ある男の半生

 *


 その男に、苗字はない。

 姓を持つことさえできなかった、百姓の端くれの生まれが、この源右衛門という男である。


 挙句、二目とみられぬ醜い顔を持った源右衛門は、その百姓の間ですら忌み嫌われた。源右衛門はその醜さゆえ、身内の葬儀にすら出ることを許されなかったのである。


 しかし、そんな男に初めて、価値を見出したものがいる。

 この戌ノ国を治める、国司である。


 源右衛門のその、山育ちにて身軽のうえ、生まれながらの俊足。

 その才覚に目を付けた若き国司・犬江直隆が、源右衛門を御庭番として城に迎えるにあたり、『道法』の姓を与えた。


 百姓であったころは見ることもできぬような町を見、百姓が自衛に使う襤褸の包丁とは比べ物にならぬほど、よく切れる刀を、国司から賜った。その才覚のおかげで、源右衛門はようやく、人に秀でた何かを手に入れたような気がしたのである。


 が、そのような儚い栄華も、僅かな時のこと。


 源右衛門が本格的に御庭番として働き始めた時には、すでに、別の男が頭角を現しているのである。


 鬼城京一郎景雪。


 古きより犬江家に仕える名家の生まれであり、剣の腕も立つ。その上、類稀な美貌の男である。


 神仏が手違いで、良いところばかりを併せ持った人間を作ったよう。

 源右衛門にしてみれば、京一郎はそのような印象だった。


 人ではない。

 そう見えたのである。


「よろしく頼む、道法」


 京一郎が馴れ馴れしく、源右衛門が賜った名を呼んだその時から、源右衛門はこの京一郎という男に、異質なものを感じていたのである。

 

 



 それでも初めは、京一郎と良い関係を築こうと、善処したつもりだった。


 いかに京一郎の才覚が、自分を上回っているのが目に見えていようと、表面上は、


「いや、鬼城には敵わぬ」


 と、平気なふりをして笑って見せた。いかに城の者が、町の者が、京一郎と自分を比べていようと、源右衛門は、京一郎の弟分であるようにふるまって、その劣等感を隠した。


 しかし、その劣等感も、独りになった瞬間には爆発した。


(どうして)


 その悔しさに、全身に嫌悪感が走り抜けた。


 なぜ、敵わない。


 源右衛門が、血の滲むほどに全身を掻きむしったことは、表面上、親友とされた京一郎さえ知る由もない。


 京一郎には家柄がある。戦えずとも生きて行ける。


 その上、顔もいい。華奢で弱くとも、その弱ささえ、美貌が盾になって、世間の嫌悪の眼差しから守ってくれるだろう。源右衛門が言っても耳を貸さなかった話だって、京一郎がしゃべるだけで、誰もが首を縦に振るだろう。


 そのあまりの、不平等さに、源右衛門はやり場のない、禍々しい情を覚えるのだった。


 もちろん、嫉妬にくるう以前は、源右衛門もひたむきな努力家であった。


 源右衛門の手にいくつも浮かび上がった肉刺と、その肉刺が潰れた痕跡、異様にすり減った草履の裏が、それを証明している。毎日のように大汗を掻き、修行にいそしみ、京一郎の後を追いかけた。


 それなのに、京一郎は涼しい顔をして、見る見るうちに腕を上げていく。


 その様が、源右衛門には憎らしく、それでいて、異常なまでに恐ろしく感じたのである。


 せめて京一郎が、自分より弱い男であれば。そうでなくとも、自分と同じくらいに、醜い男であれば。


 夜ごと何度も祈り、呪い続けたことは言うまでもない。

 それでも、京一郎という男は、どこまでも神仏に愛された男だった。


 源右衛門の思いが呪いとなって届くこともなく、京一郎は、源右衛門よりも実質、目上も同然の立場となった。


 もはや、いくら努力をしようと届くまい。


 御庭番として京一郎と肩を並べて、十年余りの時が流れたころには、源右衛門の腹の底にも、そのような諦めが募っていた。


 このまま誇りも何もかも捨て、京一郎の配下に成り下がってしまえば、いっそ楽だったかもしれない。そうとまで思えるほどに、源右衛門の誇りは打ちのめされ、傷つき、憔悴しきっていたのだった。


 その憔悴した源右衛門が、再び、燃え盛る情に身を任せるようになったのは、京一郎の配下に下ってから間もない時のこと。

 

 京一郎ら御庭番は、戌ノ国が抱える大遊郭・遊幻町の花魁より、情報を買う。


 その関係で、御庭番にはしばしば、遊幻町の花魁と顔を合わせる機会があるのだった。


 無論、客であれば老若男女を問わぬ端見世の遊女と違い、切り見世の遊女や、それよりも高位の花魁ともなれば、客を選ぶ。京一郎の美貌に黄色い声を上げていた女郎も、源右衛門を見れば瞬く間に、黙り込んだ。


 京一郎との扱いの差に、慣れぬわけではない。


 ただ源右衛門は、その忌み嫌うような視線から目を逸らし、できるだけ下を見て歩くことで、己を守ろうとした。


 そんな源右衛門を、唯一、京一郎と同様に温かく迎えたのが、女郎・蘭であった。


 太夫にもなれば客の品格や見目、貧富などを厳選するというが、蘭に関しては、目立った差別のない女であった。


 京一郎が故あって、顔合わせの場から席を外した時も、蘭は顔色一つ変えず、


「せっかくですもの。鬼城様ではなく、道法様のお話も聞きとうございます」


 京一郎とは顔見知りであるようだったが、その真摯な、あたかも心の底から、自分に興味を示しているかのような姿が、源右衛門にしてみれば未知であった。


 無論、惚れていた。

 源右衛門の醜い顔を正面から見ても、蘭は嫌な顔一つしない。


 たとえそれが、客を吸い寄せるための手腕だとわかっていても、源右衛門は蘭のおかげで初めて、顔を上げて人と話すことができたのである。


 しかし、そのような喜びも、一炊の夢。


 顔合わせの席が終わり、京一郎が去ろうとしたその際、蘭が京一郎を見上げながら、わずかに、その貌に愁いを滲ませた。


「いかないで、ここにいて」


 蘭の眼が、そう訴えているようであった。

 やはり、そうなるのだ。


 女を引き付けるのはやはり、美貌である。 


 それは京一郎に会う以前から、分かっていたことなのだ。源右衛門の諦めはいつもの如く、早かった。


 が、いつもと違うのは、その晩、諦めた情が沸々と、泉が湧くように溢れ出てきたところであった。


(また、鬼城か)


 源右衛門はその妬ましさから、唇を強く噛み締め、眠れぬ夜を過ごした。


 この時、京一郎はすでに心に決めた女を嫁に迎え、その女も、京一郎の子を懐妊している。


 もう京一郎は、人のものなのである。


 おそらくはそれを知っているであろうに、蘭はそれでも、京一郎を想い続けているのだ。


 才覚も、家柄も、美貌も持ち合わせているものというのは、何をどうしたって、人から好かれるように出来ている。


 そのように不条理な世で、醜く、家柄もなく京一郎に勝ることもできない源右衛門は、ただひたすらに、この無念を、京一郎への憎しみに変える他はなかった。


(どうすれば救われる)


 どうすれば、京一郎と比べられぬ生活を得られる。


 失恋が嫉妬に変わり、その嫉妬が膨大に膨らんで、割れた。


 どうすればよいかなど、言ってしまえば、最初から分かっている。


 ただその時は、気が向かないのだった。



 *


 京一郎を手に掛けたのも、結局のところ、


“気が向いたから”


 それだけにすぎないのだった。

 京一郎を殺すのは、思っていたよりもはるかに、容易い。


 久々に世間話の一つでもしたいと、屈託のない笑顔を浮かべて言えば、京一郎は何の疑いもなく、源右衛門を家に招いた。その鬼の良さと、甘さを鼻先で嘲笑いながら、茶を出しに来た京一郎の妻を人質に取った。


 あとは、火を見るより明らかな話である。


 気のいい京一郎は、妻を縦にされて、手も足も出ない。容易く首を取れた。


 修行も積んでいない京一郎の女を殺すのも、同様に易い。


 あれほど憎んだ男と、その家族の命を奪うことは、考えていたよりもはるかに味気なく、簡単だった。


 そこで初めて、源右衛門は気が付いたのである。


(弱くても、勝てたじゃないか)


 長年にわたり、京一郎の存在ひとつに自信を奪われ続け、自分の強さを見失っていた男が、ようやく自信を取り戻した瞬間が、その時なのであった。


 その後、京一郎の家に火を放ち、京一郎と親しかった犬江家の家臣も、殺した。その時にはすでに、京一郎に関わるものすべてを、この世から消し去らねば気が済まなかったのである。


 しかし、


(蘭は、どうしよう)


 蘭に関しては、迷いがあった。


 蘭は京一郎に惚れ込み、京一郎とも親しかった。しかし、源右衛門をまっすぐにみるその眼差しだけは、初めて会ったころから何度顔を合わせても、変わらなかった。


 鬼と成り果てたその時の源右衛門にも、わずかに、人の心は残っている。


(殺すのは可哀そうだ)


 そう思うだけの“情け”はあった。


 しかし、京一郎亡き後、想った男を失った蘭は、きっと寂しがるに違いない。


 そう考えた源右衛門は、京一郎殺しの張本人が自分だと、犬江側に悟られるよりも早く、蘭のもとへと向かったのだった。


「俺とともに、来ないか?」


 源右衛門は、己が京一郎を殺したことは隠し、蘭にそう持ち掛けた。


 京一郎への思いを断ち切れぬまま、夜ごと違う男に体を売るのも辛かろう。そう考えて、源右衛門は、蘭を遊郭から連れ出してやろうとしたのだった。


 が、


「私は行けません」


 蘭は迷いもせず、そう言い切った。


「なぜだ」


「私はここの花魁でございます。見世の頭が、この見世を捨てるわけにはいけません」


 まじめなことを言う蘭の背中が、源右衛門には、


「京一郎でなければ行かない」


 そう、拒んでいるように見えた。


「それほどに、京一郎がいいのか」


 つい、荒くなりかける口調を和らげて、聞いた。

 すると、蘭の背中が一度、ぴくり、と震えた。


「……」


 振り返った蘭の眼は、落涙こそしていないものの、水気を孕み、赤らんでいる。


「あのように強く、美しいお方になど、私は手が届きません」


「なら」


「けれど京一郎さまが生きている故、私も生きたいと思えていたのです」


 そう言った蘭は、幾重にも重ねられた絢爛な着物の袂から、物騒にも懐剣を取り出した。


「あなた様が京一郎さまを殺したと、犬江家の方より耳にしております。私のところにも来るやもしれぬと」


 蘭の口から紡がれたその言葉に、源右衛門は凍り付いた。


 予想よりもずっと早く、犬江家は、源右衛門の足取りを掴んでいるらしい。それが分かるや否や、源右衛門の奥底に眠っていた者が、顔を出して、


「ならば、連れ去って犯せ」


 と、命じるのだった。


 そのつもりなど、最初はなかった。


 蘭の心が自分にないことは承知している。だが、京一郎を失った悲しみを抱えながら男の相手をするなど、あまりに不憫である。想った女故に、源右衛門は蘭を救い出し、自分は手を出さないうえで蘭に平穏を与えようと考えていたのである。


 しかし、余裕がなくなれば、恩情より欲望が出てくるのは、人の常。


 首を討ち取られる自分の姿が思い浮かんだ刹那、心よりも最初に、体が動いた。


 蘭に詰め寄るや、胸元の襟を強く掴んで押し倒す。


「うっ」


 強かに背を打った蘭が、うめいた。

 それもかまわず、源右衛門は着物の襟に手をかける。


 どうなってもかまわない。どのような形であろうと、一度だけでも、この女を我が物にしたい。


 そのような欲望が、顔に現れた。


 蘭の眼に映った、自身の醜い顔に、源右衛門は一瞬、驚く。驚いて、仰け反った。


 なんと醜い顔であろうか。


 我が子さえ食い物にする狒々と同じ、皺の刻まれた、この世ならざる醜悪な顔をしている。


「……醜い人」


 刹那、源右衛門の下で、蘭が優しく微笑みながら、そう言った。 


 眉根を歪め、涙をひとひら流すと、蘭は我に返った源右衛門に向かってもう一度、微笑む。


「その血に汚れた体に犯されるのは耐えかねます。……ならば、私は、想った方のもとへと参りましょう」


 言うなり、蘭は組み伏せられたまま、己の首に懐剣を突き立てた。


「あっ」


 源右衛門が止めようと、手を伸ばしたが、後の祭り。 


 ぱっと血煙が咲き、その仄かに温い血が、源右衛門の頬を濡らした。


「きゃあ!」


 源右衛門が蘭を押し倒したその物音を、廓の者が物騒に思ったのであろう。戸を開けた禿が、青ざめ、その光景を見るや悲鳴を上げた。そして震える細指で源右衛門を指さし、


「人殺し!」


 と、叫んだ。


 慌てて、源右衛門は廓の障子窓を蹴破り、廓お屋根に上る。騒ぎを聞きつけた者たちが集まってくる足音を聞きながら、屋根伝いに逃走した。


(わけが、わからん)


 源右衛門は混乱したまま、逃げた。


 蘭に拒まれたことよりも、死に際、蘭が異様なまでに安らかに微笑んでいた顔が、忘れられない。


 源右衛門をそれほどに嫌っていたなら、顔を赤らめ、憤怒し、罵声を浴びせればよかったものを。


 あの女は、京一郎への愛を湛えたかのように、仄かに愛おしげな、優しい顔で死んでいったのだ。


 想った男の後を追って死ぬことが、生き延びることよりも幸福だというのか。


 この時、源右衛門は初めて、蘭と自分が違う生き物のように思えたのだった。理屈が、死生観が、まるで一致しない。それはあたかも、自分と同じ御庭番でありながら、似ても似つかない、京一郎のようであった。


「……糞っ!」


 お歯黒どぶをも一足飛びで跳び超え、遊郭の外に脱走し、源右衛門は悪態をついた。


 おかしいのは自分自身なのか、この国の人間が皆おかしいのか。


 すでにその判断もつかなくなった源右衛門は、道中、道端に落ちていた襤褸の黒衣を拾い、身に纏った。


『醜い人』


 蘭の言葉から逃れるように、源右衛門は黒い衣で身を隠しながら、戌ノ国より姿を消した。


 その上空を、風切羽を広げた鴉が、強風の中でもがくように滑空している。




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