第26話 その後
*
狛犬城の昼下がりは、再び、和やかな時を迎えた。
財政管理にあたる者、検地に行く者、武技を磨く者。
それまで張り詰め、団結して武具を手入れしていた者たちが、元来の職務に当たっている。
「ふッ」
狛犬城下境内の裏で、萬國が横殴りに木刀を放った。
轟音を立てた木刀が風を起こし、宙を荒々しく引き裂く。
しかし、福間が悠々と息をつき、下段に避けるほうが早い。木刀は勢いのままに福間の影をつんざき、そこかしこから生えた竹の一本を、ばしりッ、と叩き折った。
「うわっ」
萬国の何倍も高い竹が、他の竹に寄り掛かりながら倒れる。それに驚いた萬國が、慌てて駆けだし、倒れかけた竹を受け止める。常人ならばその重みに耐えきれず、膝を突くところ、萬國はびくともせず、竹をゆっくりと地におろしてやる。
そんな萬國の背後から、福間はそのまま、木製の短刀を、萬國の腹に軽く突き付けた。
「はい、突いた」
福間は優しく微笑むと、木の短刀を下におろす。
「すごいや、萬國さん。木刀で竹を割っちゃうなんて」
「ありがとう……。すまない、竹を一つ、駄目にしてしまった」
「いいんだ。おかげで丁度いい腰かけができたし。一息つこう」
福間は短刀を下げると、倒れた竹に腰を掛ける。
「僕は力が弱いから、萬國さんみたいな力持ちじゃないんだ。萬國さん、身のこなしが良くなったら、きっと強くなるよ」
「福間殿の、稽古が良いおかげだ」
「福間でいいよお」
礼儀正しい萬國に、福間は破顔する。
「そういえば、あれから奥さんどう?体調とか」
「ああ」
萬国は意識せぬうちに、顔をほころばせた。
鴉から狛犬城の御庭番となったあの晩から、萬國は狛犬城にほど近い空き家を貸してもらい、その家で衣と過ごしている。
以前に住んでいた家に残しておいた銭が助けになり、衣の薬代には困っていない。そのおかげで、衣の体調も、薬を減らす以前のように、快調になりつつある。
「元気に暮らしている。殿と、皆のおかげだ」
「ふふっ」
福間は女人のように肩を上下させながら、しとやかに笑うと、
「よかった」
と、可愛らしく小首を捻った。
朗らかな昼下がりの、竹林は美しい。陽光を受けた笹の葉が、その新緑を滲ませた萌黄色の灯りを地に届ける。耳をすませば、ここから離れた神社の境内で遊ぶ、子どもたちの楽しげな声が聞こえた。
「僕もこうやって、鬼城さんに稽古をつけてもらってたんだ。僕が教えるのは初めてだから、正直、わくわくしてるんだけどね」
んーっ、と背を伸ばし、気持ちよさげに吐息をつく福間は、自身の握っていた短刀を手の内で転がしながら、宙に投げる。短刀は宙で何度も回転を繰り返しながら、福間の手へと舞い戻ってきた。
「……そういえば、鬼城殿は」
福間の口から鬼城の名が出たことで、萬國は鬼城の存在を思い出す。
あの夜から、鬼城を昼に見かけていない。
「ああ、鬼城さんなら、きっと遊幻町だよ」
福間が考える間もなく、即答する。
「遊幻町……あの、遊郭か」
「そそ」
悪戯っぽく口の端を吊り上げ、
「鬼城さん、好い人に会いに行ってるんじゃないかな?」
と、人差し指を唇に当てる。
鬼城さんには内緒。
そう告げているらしい。
*
鬼城が遊幻町を訪れたのは、また、昼だった。
燦々と降り注ぐ秋の陽は、肌を傷めず、心地が良い。
「鴉の頭目を、討ち取られたのですね」
濡れ縁に坐する鬼城に、胡蝶太夫が声をかけた。
相も変わらず、美しい女である。
外の天気が快晴から曇天に変わり、しとしとと弱い雨が降り始めても、胡蝶の美貌は色褪せない。
遊郭の頂に立つ高位の女郎だけに、その美しさたるや、格別のものだった。
しかし、姐の仇が生きているときと、姐の仇が討ち取られた今とで、表情が差して変わっていないことに、鬼城は違和感を覚える。
しかし、最高位の女郎が、不安や歓喜を容易く客の前でにじませるのは、禁じられているという。女郎の世界の約束事に、鬼城は口を出すことはできなかった。
しかし、
「喜ばないのか」
やはり、鬼城は問うた。
胡蝶はしばし、眼をぱちくりと瞬かせたが、その後、優しげな微笑を顔に浮かばせる。
「もちろん、喜んでおります。これで姉様も報われましょう。けれど」
「けれど」
「私は、京之介さまが、鬼とならず帰ってきたことが、一番喜ばしいのです」
胡蝶が滑らかにそう、言葉を紡いだ。
「長きにわたり待ち望んでいた報復を、終えた京之介さまがどうなってしまうか。京之介さまが、抜け殻のようになってしまうのではないかと、私は怖くてなあなかったのです」
「抜け殻、か」
鬼城はふと、萬國の顔を想起する。
あの晩、一時は鴉に関わる全てのものを、焼き払い、殺さねば気が済まぬほどに、怨念が募っていた。あれほどの憎しみを湛えたまま、道法を殺していれば、確かに鬼城は、その先の己の人生など考えつくこともできなかったかもしれない。
「大丈夫だ。道法を討ち取っても、まだ、やるべきことも、やりたいこともある。それがあるおかげでまだ、生きたいと思える」
鬼城の視線は、間一髪とぶれることなく、胡蝶太夫を射抜いている。
御庭番として、まだまだ世話になった城主に仕えていなければと、思う心は無論、ある。
しかしそれと同じ丈だけ、胡蝶を身請けし、夜ごと売春の繰り返されるこの場所から、救い出したいという願望もあるのだった。
その忠誠と願望が、今の鬼城を生かしている。
もし報復の身に全てをささげていれば、きっと今頃、座って息をするだけの空虚な日々が続いていたに違いない。
その時、
ざん、
と、急な大雨が降った。
弱弱しかった雨粒が矢玉の如く降り注ぎ、今にも屋根を叩き割らんばかりの勢いである。このような豪雨にもかかわらず、空を仰いでみれば、曇天の合間にちらほらと晴れ間が見えた。
「まあ、通り雨」
胡蝶は慟哭のような雨音に耳を傾けながら、雅に笑んだ。
夏と秋は、たまに、こうした昼下がりと夕刻に、短期的な豪雨が来る。叩きつけるような雨とは対照的に、晴れ間から差し込んだ陽の光を受け、艶やかな虹が上っている。
嬉し泣きか、悲し泣きか、その様はあたかも、堰を切って天が泣いているように見えたのだった。
(あ)
轟々と降りしきる雨の中を、大きな鳥が一羽、飛んで行く。
鴉ではない。
飛び方、羽の形から見るに、猛禽の類のようである。
「……」
遊幻町の上空を見張るように、猛禽は何度も周回すると、やがて、隣国のある北の方角へと飛び去って行った。
その去る姿を眼に映し、鬼城は口の端を歪める。
(くく)
やはり、気になったか。
鬼城はまだ見ぬ隣国の御庭番たちの姿に思いをはせ、ほくそ笑む。
鴉衆は暗殺と強盗、偸盗に長け、その業を戌ノ国周辺の国々でも売っていたと聞く。それなりに厄介だが、使いどころも多い組織だった。
そんな鴉衆が、一晩にして壊滅させられたとあって、周辺の国々の国司が、戌ノ国の様子を探らせに来たのであろう。
現に今、一国、御庭番が戌ノ国に刺客を放っているとみえた。
刀を交えねばならぬことも、まだまだ、この先には山ほどあるらしい。
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