第19話 私は戦う


 *


 夫の万蔵が、衣を冷たく置き去りにしてから、どれほどの時間が経ったのか。

 衣は火も灯らぬ、一寸先も闇の中で、呆然と座り込んでいた。


 自分の体が虚弱であることなど、己のことゆえ、衣もよく理解している。しかしそれでも、薬の量を減らし、夫に負担を掛けぬよう、努めた。夫が夜な夜な、どこかへ出かけていくのも知っている。


 夫は、衣の目も、理解も届かぬどこかで、戦っているのだ。


 知らず知らずのうちに、万蔵の体に刻まれていった満身創痍の傷が、それを証明している。


 それでも衣は、気付かぬふりをした。


 病を持ち、弱い自分にできることなど、限られている。衣は分をわきまえたつもりで、追及はしなかった。


(訊けばきっと、万蔵さんの迷惑になる)


 そんな気がしたのだ。

 無垢な、良き妻であろうとした。


 しかしとうとう耐えきれなくなり、衣は、不穏な黒衣に身を包んだ夫を、引き留めた。


 それでも、衣の訴えは万蔵に届くことはなく、万蔵は衣を置いて、家を後にしてしまった。それが、先ほどの話である。


「……」


 衣はうつむいている。

 どうすればよかったのか、分からない。


 夫の力になることも、夫の抱える苦しみを分かつこともできぬというのに、干渉をしようとしたことが悪かったのか。


 衣は呆然とし、開いた口を塞ぐこともできぬまま、考えていた。

 その時、


「ここだな」


 家の壁越しに聞こえた鮮明な男の声に、衣は我に返った。


 慌てて息を殺し、耳を澄ませてみる。盗人か。このような夜中に客人などありえない。


 良からぬ者。

 衣はそう判断した。


 しかし、その“良からぬ者”の行動は速い。


 衣が身を潜める場所を探しているその間に、がらり、と、家の戸が乱暴に開けられた。


 虫も寝静まっているような静かな夜に、その音はあまりに、大きく聞こえる。衣は驚いて、肩を跳ね上げた。


「誰っ」


 細いながらに、衣は威嚇の意を孕ませて、大きな声を出す。

 雲に隠れた月が、顔を出す。


 その僅か明かりが格子戸から差し込み、家に押し入った者の姿を浮かび上がらせる。


 夫と同じ黒衣に身を包んだ男が、二人いる。万蔵に比べればいくらか身の丈も低いが、それでも華奢な衣にしてみれば、その男らの影も十分に、大きく見える。


 わずかな月あかりが照らせたのは、その人影だけである。それでも、男らの目は炯々と、夜闇の中で不気味にちらついているのだった。


「お前が万蔵の女か」


 先頭に立つ男が、夫の名を口にした。 


 立ちすくんだ衣に歩み寄るや、男は躊躇なく、衣の細腕を掴んで引き寄せる。引き寄せ、男は衣の白い頬を、武骨な手の指で荒々しく挟んだ。


 掌に顎を置かせ、親指と人差し指を交互に、強く歯にこすりつけるよう動かされ、衣は思わず、


「痛」


 と、口に出しかけた。


 しかし、眼前に映った奇妙な鳥の面と、その下から覗く不気味な薄ら笑いに、衣は一瞬、痛みをも凌駕する怖気に襲われたのだった。


「なかなかの上玉だな。あの万蔵には勿体ない」


 男はそう嘲笑する。便乗して、後ろにいた男も、


「おい、終わったら俺にも回せよ」


 と、声高に要求している。


 この男らが何をしようとしているのか。

 衣にも、手に取るように理解できた。


「ん!」


 衣は掴まれていない白い腕を伸ばし、男の顔を、自分から引き離す。

 しかし、華奢な女の抵抗など、男はものともしない。


「この女っ」


 急に抵抗し、暴れた衣の頬めがけて、男は平手を打った。


 甲高い、肉を打ち付ける音が、家の中にこだます。男の放った本気の平手打ちを受け、衣はそのまま床に倒れ伏す。初めて経験する、その強烈な痛みに、衣は立ち上がることもままならなかった。


「ううっ……はっ」


 痛みと、衝撃と、恐怖で、息が上がる。


 頬を討たれたとき、顔が大きく揺れ、目の前で閃光が弾ける幻覚を見た。強い衝撃を受け、頭が朦朧としている。


「おい、あまり顔を殴るな。歪んだ顔の女なぞ、抱きたかないぞ」


 もう一人の男が、そう窘める声が聞こえてきた。


 男が倒れた衣の襟をつかみ、起こそうと引き上げる。衣の全身に、悪寒が走り抜ける。


 このまま自分がどうなるのか。それを考えると、嫌でも、指先が震えるのだった。


 自分がこのように弱い体でなければ、男の手を振り払い、逃げ出せたろうか。


 そのような考えも脳裏をよぎって、衣は果てしなく、己の体の弱さを口惜しく思った。


「おねがい……」


 動いて。

 この指、この腕、この足。この男を振り切り、逃げる力を引き出して。


 誰に届くでもない、己への懇願が、花唇より零れ落ちる。

 その刹那、


「衣!」


 夫の声が家に響き渡る。


 声を荒らげたことなど一度もない、あの夫の声が、怒号に化けて家を揺るがしたようだった。


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