第18話 さまよう濡れ羽
*
福間の行きついた東の口には、二つの影がある。一つの大きな影は地に伏し、もう一つの影は悠々と、地から伸びている。
鬼城と、件の「囮の男」だった。
「鬼城さん」
呼ばれて、鬼城は振り返った。
素人相手の戦い故、当然のことだが、鬼城は無傷である。
しかし、肝心の囮のほうも、見れば刀傷一つついていない。ぐったりと倒れこんでいる。
福間が駆け寄り、頸を触ってみれば、しっかりと脈もある。気を失っているだけなのだろう。
「……やさしーの」
福間は頬を緩めると、意地の悪そうな笑みを作って、歯を剥いた。
「囮を殺すのはどうだの、生け捕りにしようだのと、評定で散々渋っていたくせに、どの口が言う」
鬼城は吐き捨て、血脂一滴とついていない刀を、鞘に納める。
「えへへ」
鬼城の情けに、福間は安堵する。
評定の時まで、鬼城はまさに、鬼そのものだった。
その時には、囮の男さえ斬り捨てることを辞さぬと、本気で言っている。何があって心変わりをしたのかはさておき、鬼城の顔にどことなく、熱が戻っていることを、福間は喜んでいた。
かつての鬼城が戻ってきた。
この囮の男と同じように、武者に向かず苦労していた福間を救い出した時と同じような。
「北の口はどうだ」
話題を切り替えようとしたのか、鬼城の中ではそれが最優先すべきことだったのか、急に声の調子を落として、鬼城が戦況を問うた。
「道法はいたのか」
「飛び出してきた者は、みんな討ち取ったよ。全員で四人。けれど」
「道法はいなかったんだな」
「鬼城さんが伝えた人数よりも、少ない。道法と一緒に、誰か別の場所に行ったかもしれないと思って、ここに来たんだけれど……」
「ここにも、来ていない」
鬼城は返すと、ふと、はるか南の天を仰ぐ。
眉間に皺が寄ったその面差しは、神妙だった。
「……言い直す。来た」
鬼城は今一度、抜刀した。
我に返って、福間は鬼城の視線を追う。
南の空を遮る城門の上に、影がひとつ見える。瑠璃の石を溶かした空に、汚れた脂の雫がひとつ滴ったような光景。
汚れた脂の影からは、爛々と、奇怪な双眸が覗いている。
「道法」
鬼城が口を開くよりも先に、福間の口から声が零れた。
鬼城はと言えば、道法の影を睨みつけながら、刀身を揺らめかせている。
「……しくじったか、万蔵」
生ぬるい不穏な夜風に乗って、道法の枯れた声が、御庭番衆の耳に届く。
「その上に生け捕りにされるとは、恥晒しめが」
道法の罵言は、静かであった。しかし、すり鉢の底を強く擦るような、独特さがある。
「恥晒し、か」
その時、鬼城が沈黙を破り、声を絞り出した。
「狛犬城の御庭番でありながら、主に背き逃げ出した弱輩者が、何を言う」
地鳴りの如き、唸り声であった。怒鳴るでも喚くでもない、落ち着いた声であるにもかかわらず、濃厚なまでの殺意を孕んでいる。
その全身から棘を立てんばかりの、鬼城の静かな背中を、福間は固唾を飲んで見ていた。
鬼城の両親が道法の手によって死んでいることは、鬼城の口から語られていないものの、狛犬城の家臣の多くが知りえている。暗黙の了解で、口にしないでいることだった。
親の仇を目の前にすれば、いかなる者でも、心から平常でいることはできない。
声色とて冷静であったが、鬼城の放つ剣気は尋常でない。
「福間」
その時、鬼城が道法と睨み合ったまま、福間に呼び掛けた。
顔を跳ね上げた福間のほうを、鬼城は振り向くことなく、
「その囮を連れて行け。人がいるのは、斬り合いには邪魔になる」
と、言う。
要するに、鬼城と道法の死闘に巻き込まれぬよう、この囮を避難させてやれというのである。
(そう言えばいいのに)
福間は思ったものの、今は空気を読んだ。
普段のことなら、心に思ったことを言って茶化したろうが、今はそれが許される状況ではない。鬼城とて、今にも道法を斬りたい思いを殺し、この囮を逃がす配慮をしたのだ。
福間は、自分より頭ふたつ分も大きい囮の襟を引っ掴むや、その重量の体を引きずった。
「あっ」
囮を全力で引きずる福間の眼に、道法が、城門から飛び降りる姿が映った。
こっちに来る。
福間は唇を噛み、脇差の柄を触った。
しかし、福間が抜刀するよりも早く、鬼城が動いた。
音もなく疾走した道法の影を捉え、鬼城が福間と道法の間に立つ。青白い燐光を放ち、道法の刃が光る。それを、鬼城の刀身が風を切って受け止めた。
金を切り、交わる金属音が、鬼城と道法の間で弾けた。
「ぐ」
刃を受け止められ、道法の醜悪な顔がさらに歪んだ。
道法の前に立つ鬼城が、どんな顔をしているのか、鬼城の背後にいる福間には考えもつかぬ。しかし、道法の醜い顔は、異常な剣幕で鬼城を睥睨していた。
あの刃が離れれば、次はどこで斬り合いになるかわからない。
(早く離れなきゃ)
福間は襟を引き裂かんばかりの勢いで、囮の男を持ち上げるや、その太い腕を首に回して、巨体を背負った。ひとまず、城の中まで運び込めば、双方の刃が当たることもない。
福間はそう踏んで、巨体の重みに耐えながら大きく一歩を踏み出した。
そのとき、
「約を違えたな万蔵。手前の家と女はもう、無事でないと思え」
道法がそう、声を張った。
この巨体の囮の名であろう。
この囮に妻がおり、その妻が病に弱いことは、福間も知っている。
ゆえに、悟った。
虫も殺せぬような男が、城主暗殺などという堅気ならざる企てに加担しているのは、妻のためであろう、と。妻を人質に取られでもしたのかもしれない。
福間の脳裏をよぎったのは、この男の妻、もとい、福間の守る社の参拝者の女。夫の行く末を案じ、神にも縋っていた。どう考えたって弱者であるこの夫婦を、恐怖で縛って使用するとは、道法という男はなんとも、悪辣極まりない。
(なんてことを)
福間は振り返って、道法をひと睨みすると、脚の筋肉を膨らませた。地を強く踏みしめ、僅かにでも早く、次の一歩に出る。
(不幸になどするものか)
青二才の福間は、果敢である。
“家も女も、無事では済まさない”
道法はそう言っていた。
残りの逃げた鴉が、この男の住まいに向かっているのであろう。だとすれば、悠長にこの男の介抱などしている暇はない。優先すべきことは別にある。
福の神として、参拝者に降りかかる厄を見逃すなど、あってはならないのだ。
*
「おきて」
どこからともなく、そんな声が降ってくる。
「起きるの!」
刹那、闇の中で、萬國は水を被った。
「うっ」
水を被って初めて、萬國は目を覚ました。
飛び起きてみれば、仰向けに寝かされた状態から、上半身を起こしている。
上体を起こした萬國が寝かされていたのは、狭苦しい廓だった。
穿たれた洞窟に板を敷き、組付け、廓を作ったかのように、木の壁のそこかしこから岩肌が垣間見えている。まるで、牢獄の入り口を絵に描いたような光景だった。
「起きたね」
肩を跳ね上げる。
慌てて背後に視線をやれば、その先には、いつぞや顔を合わせた、あの小柄な青年がいる。
「お前は……」
萬國が口を開くよりも先に、青年は萬國の手を握り、引き寄せ、立ち上がらせる。
「今はいい。そのまま立って、僕についてきて」
*
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