第16話 そんな貴方が羨ましい


 *


(巨体が幸いしたか)


 萬國の踏みしめたその土が、深くえぐれているのを見て、鬼城は深く息をつく。

 気の優しいゆえに無能と見えたが、身体的な才覚はあるらしい。


(その性分は、勿体ないな)


 鍛えぬけばさらに研磨され、その才覚を発揮できたであろうに。

 その才の芽を摘むのは惜しい。


 しかし、この男も所詮は怨敵の一員になり下がった者である。情け容赦をかける慈悲など、鬼城は持ち合わせてはいない。


 一度道を踏み外したものが、堅気に戻るのは難しい。


 その上、萬國は百姓としての仕事の収益はほとんどなく、鴉での稼ぎに頼って、ようやっと生活が成り立っていると聞いている。そのような男が、隠密稼業から足を洗い、百姓に戻ったところで、また貧しい生活に戻るだけであろう。鴉衆の連中に負わされた火傷で、萬國はさらに、人を寄せ付けぬ凶相を化した。


 鴉であっても、百姓であっても、萬國万蔵という男に安楽の道はない。


(ならば、いっそのこと)


 ここで楽に死なせてやるのが、鬼城にできる最大限の慈悲というものであろう。

 萬國が短刀を手に攻めてかかる。


 その巨体の突進を、鬼城はするりと、体を傾けて躱す。身を翻し、いともたやすく、萬國の背後を取る。


(取った)


 しかし、鬼城の放つ剣気は、異様に強い。

 それが萬國の背中を冷やし、逆なでする。


 刹那、萬國の太い腕が、鬼城めがけて放たれた。


「う」


 轟々と風を切ったその音に、鬼城はとっさに膝を折り、地に伏せる。


 頭上を掠めた萬國の腕が、振るわれた杵が如くに風を起こす。凄まじい、重量感のある風音であった。


 命を脅かされたものは、弱った小鼠でも猫に傷を負わせる。


 生死の瀬戸際に立たされた萬國の足掻きに加えて、その体格が鬼城の邪魔をする。そこらの男よりも太く強靭な腕を、正面から食らえば、鬼城とて吹き飛んだであろう。


 振り向きざまに短刀を振ったつもりの萬國は、全力で腕を振った衝動で、よろめく。


 よろめいた萬國の懐が、見える。

 その分厚い胴の中心、鳩尾めがけて、蹴りを入れた。


「ぐっ」


 鬼城のような痩躯とはいえ、鍛錬された脚力は並々ならぬ。


 急所めがけて鋭利な突きを入れられ、萬國の疲弊しきった巨体は、いとも容易く地に転がる。


 それでも、萬國も諦めが悪い。地に転がった瞬間にその身を翻し、立ち上がる。

 立ち上がり、再び腕で頸を守りながら、短刀を横に構えた。


「……」


 刀を地に向けて引っさげたまま、鬼城は萬國と対峙する。

 なんという眼差しであろうか。


 見るからに鍛錬を積んだ蛮族の武者たる容貌を持ちながら、その顔に浮かぶのは、懸命と疲弊の同居した表情。目の奥に滾る鬼城への恐怖心は、なんともみっともない。見掛け倒しの弱者を絵に描いているようで、鬼城はどことなく、歯痒くなった。


 しかしどうしてだか、その歯痒いまでの萬國の姿に、鬼城は胸を打たれている。


(少しでも長く生きるのに、必死な顔)


 弱者という分を弁えず、強者へと果敢に立ち向かう無謀な顔。


 生き延びたければ降伏し、ここから逃げ出せばよいものを、萬國は、それをしない。


 その理由を。鬼城は知っている。


 萬國に課せられた役目は、少しでも長く兵と御庭番の気を引き、最期に散ってゆくことだ。


 無様に逃げだすことも、早死にすることも許されぬ。

 役目に背けば、萬國の妻も犠牲となるのだ。


(馬鹿な男だな)


 表面上、鬼城は冷徹にせせら笑う。

 血も涙もない鴉衆が、死にゆく萬國との約束ごとなど守るはずもない。


 萬國を犠牲にして城主の首を討ち取れば、その後、ほんの娯楽を得るために萬國の妻を手籠めにし、殺すであろう。


 そのようなことも想像できず、わずかな希望に縋り、戦う萬國の姿は、愚かである。


 しかしその愚かな男を目の前に、嘲笑する鬼城は、心なしか己の体が、小さく縮んでいるような気さえした。


 自分よりも長く生きたくせに、選択を誤り続けてその手を汚したのが萬國だ。幼い日より鍛錬を積み、報復のために直走ってきた鬼城とは、決意の固さが違う。

それなのに、そのような弱い男に、なぜ、劣等感に似たものを覚えるのか。


 鬼城は柄にもなく、苛立った。

 萬國の愚かさを利用し、踏み台にする道法はやはり、非道の者である。


 生かしておいていい命など、鴉衆の者にはなにひとつ、存在しない。殺し滅するのが然るべきことだ。


 圧倒的優勢に立っていながら、鬼城の心の臓は、揺れている。


 萬國のその、己のための生存より、妻のための生存を最優先とするその眼差しが、鬼城を揺さぶるのだった。


(どうしたって、こんなにも)


 報復を果たすのに、胸糞が悪いのだ。

 これまでどのような厳しい修行にも、その報復への執念を糧に乗り越えてきた。


 その執念すら凌駕するほど、萬國への同情とも羨望ともつかぬ情は、強く身の内から湧き出るのだ。


「?」


 次の一手にかからぬ御庭番を前に、一瞬、萬國の張り詰めた表情が、僅かな驚愕で和らぐ。


“なぜ、斬りかかってこない”


 萬國の顔は、そう言いたげだ。


 鬼城には今、自分がどのような面持ちでいるのか、想像もつかぬ。ただ葛藤し、混沌した脳裏の片隅に、胡蝶太夫の顔が浮かんでいる。


 人というものは、自分以上のものを持つと、ここまで激しく、命の燈火を燃やせるものだというのか。自分のなりふりや気品もかまわず、汚泥に汚れようと、みっともない姿で戦えるというのか。


 鬼城の腹の底には、薄々、


「この男を死なせてはならぬ」


 そのような正義感が湧いて出ている。


 もし胡蝶がどこぞに捕らわれ、命危うき状況にあったのなら、鬼城は手足を失おうと、這ってでも助けに行ける。萬國に感じているこの心の揺れはある種、共感でもある。


「阿呆だな」


 鬼城は苦々しく、歪な笑みを浮か、吐き捨てる。


 優しき城主を悲しませぬため、少しでも狛犬城側の犠牲を減らす配慮をしたうえで、鴉衆が乗り込んでくるほうに、人員を多く配置した。しかし萬國は、予想を超える番狂わせであるらしい。


 萬國がさっさと尻尾を巻いて逃げようとすれば、鬼城は予定通り、その情けない背中を、容赦なく切り捨てることができたというのに。


 鬼城は肩の力を抜くや、脱力する。

 耳の奥で、かつて自分の家から火柱が立った、その焔の音が響いていた。


  *


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