第11話 萬國という男
*
萬國は、巨体を覆う黒い衣を揺らめかせ、闇の中で足音を殺す。日もとっぷりと沈み、民の多くが眠りについた。
今宵、狛犬城城主の首を討ち取る。
うまくいく見込みは、ない。
しかし、たとえうまくいっても、咎人として生涯、追われ続けることは目に見えている。あの “鴉 ”の連中が、捨て駒の萬國に助け舟を出すとは考え難い。
萬國の目は、元来、夜に慣れてはいない。しかし “鴉 ”に加わってからは、深夜の仕事も増えた。おかげで、夜目も多少は利く。
秋めいてきたにもかかわらず、羽毛を詰めてやれなかった薄い布団をかぶり、衣は眠りについている。
その儚い寝顔を見て、萬國は思わず、その頬を撫でてやりたくなった。
しかしそれも叶わず、硬い岩の如き拳を握りしめる。
この儚く美しい妻を、生涯かけて守り抜こうと心に決めていたというのに、結局、それは夢幻だった。百姓風情の萬國は、無力である。
せめて、もう少し俊敏であれば、衣を連れて逃げ出すことができたかもしれない。それでなくとも、もう少し口先が達者であれば、このような悪行に手を染めずとも、生きて行けたかもしれない。
それすらも叶わぬ自分を、呪う。
萬國は床下に隠しておいた櫃を取り出し、衣の衣服が畳まれている押し入れの中に隠す。衣が起き、着替えるときには、必ず銭の存在に気が付く。
悪行にて稼いだ、汚れた銭だ。
それでも、これが衣の命をわずかにでも繋ぐことが出来るのであれば、萬國は “鴉 ”に加わったことを悔やむことなく、死んでゆける。
(今宵限りか)
衣を起こすまいと、気配を消し、衣から距離を取る。
もう二度と、この顔を見ることはできないであろう。意を決し、静かにその身を翻した。
その、刹那。
「万蔵さん」
背後で、衣が細やかな声で、萬國を呼んだ。
とっさに振り返れば、その闇の先では、衣の影が立ち上がっている。
一尺余りの距離があったが、夜闇に慣れた萬國の目には、衣がどのような顔をしているのかが分かる。
唇を噛み、短く、浅い呼吸を繰り返している。不安げな面差しであった。
「衣」
「どこへ、行かれるのですか」
衣の消えいらんばかりの足音が、近づいてくる。
萬國が呆然としているその間にも、衣は萬國の一歩手前まで歩み寄ってきた。
なんと真摯な眼差しか。
その眼の中は涙が溜まり、澄み渡った池の水面の如くに、窓から差し込んだ月の光を映し、弾いた。
突き刺さらんばかりの視線が、萬國には痛い。
耐えかねて目を逸らし、
「ちと、出かけるだけだ。大した用では……」
「嘘」
衣は、今にも折れんばかりの細い手で、萬國の小袖の袂を握る。
「知っていますもの。ここのところの万蔵さんが、毎晩のように外へ出て行っては」
「……」
「満身創痍になって、帰ってくるのを」
そう明かす衣の手が、震えている。
衣が萬國の秘密に勘づいていたこと以上に、萬國には、眼前にいる衣の表情に、目を奪われていた。
心配している、というよりも、苦しげな顔だった。あたかも身を斬るような苦痛に耐え忍ぶかのように、衣は押し殺していた涙を一筋、流した。
「なにか不穏なことに関わっていることは、分かっていました。その時、不安に負けて見過ごしていたのは、私の愚かさゆえのこと。しかし」
「衣、もう」
「今のように、こうして止めればよかったのです」
大人しい衣が、豹変したようだった。
うろたえ、制止を促そうとする萬國を振り切り、その胸を強く寄り添った。
「いかないで。大した用でないのなら、今宵はここにいて」
萬國は、しがみつく衣を、どうすることもできない。
衣は、薄々と察していた萬國の異変に、勘づいていた。それでも、平穏のためにと見過ごし、黙っていたのであろう。
その我慢が、限界に達したのだ。
よりにもよって、この日の晩に。
「――」
萬國は、震える唇から、必死の思いで息を吐き出した。
息は吐けても、言葉が出ない。
適当に、残酷な、嘘をつけばよい。
他に女ができたといえば、効果的であろう。その一言で、衣は萬國に失望する。萬國の頬に張り手を食らわせて、その日の晩にでも、怒って夫を追い出すだろう。
ところが、そのたった一言が、言えない。萬國の脳裏に浮かぶ一言は、衣を激怒させるに相応しいであろうが、同時に、衣を深く傷つけることになる。
(なんと弱い男だ)
己の不甲斐なさに、萬國は強く目をつむり、奥歯を軋ませた。
愛する妻を傷心に追いやるなど、できない。
しかし己の優しさと、弱さが、萬國の足を引っ張るのだった。
どこかで、ざわ、ざわ、と、夜風に草が揺れた。
遠い場所からの草の根が、やけに、大きく聞こえる。その草の根とともに、屋根の上から、鳥の羽ばたく音が降った。
「うっ」
萬國はその羽音に、肩を跳ね上げる。
羽音が彷彿とさせたものは、鴉。
皮肉なことに、萬國の背中を押したのは、まぎれもない “鴉 ”への恐怖心であった。
萬國は両手で衣の細い肩を掴むや、無理に引きはがす。衣の僅かなうめき声も無視して、萬國は踵を返して距離を取った。
「帰っては、来れない」
萬國は振り返りもせず、そう告げる。
衣の顔を見るだけの、勇気がなかった。
「……逃げてくれ。できるだけ人目を避けて、この家から」
最後に零れたのは、本音であった。
萬國はそれだけを言い残すと、重い足を引きずって、土間へと降りる。
「万蔵さ……」
衣は萬國を追いかけようとしたようだった。
しかし、一歩踏み出した時の大きな足音がした、その直後。
衣が咳いた。
苦しげな喘鳴が、背後から聞こえてくる。
萬國は背後に視線をくれてやることもなく、戸口をくぐると、ぴしゃりと戸を閉めてしまった。
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