第10話 胡蝶


 *


 傾城・胡蝶太夫こちょうだゆう

 この遊郭の最高位に位置する花魁 “太夫”の一角である。


 教養と芸に優れ、なおかつ、囲碁に将棋に貝合わせ、たしなまれる娯楽の一通りを覚える。人を楽しませる術の全てを叩き込まれた、まさしく遊女の頂点である。それゆえに、太夫を一晩買うだけでも、端見世の遊女とは比べ物にならぬ額の金がかかる。


 鬼城とて、毎晩通えるような額ではないのだった。

 それでも、金銭的な余裕ができれば必ず、鬼城は胡蝶太夫のもとへと通っている。


 胡蝶とは、鬼城の元服時に顔を合わせて以来、頻繁に逢瀬を交わしている。馴染みの客であり、知人だった。


 しかし、逢瀬を交わしたとて、鬼城は胡蝶を抱いたことはない。

遊女を一晩買っても、高級な遊女ともなれば、幾度か会わなければ床にも入れぬ場合はある。しかし、鬼城ほどの馴染みになれば、とっくに手を出していてもおかしくはない。


 それでも胡蝶を抱かぬのは、鬼城の確固たる貞操意識であった。


 遊女に貞操も何もないが、鬼城は軽はずみな欲情では抱かぬ。手を出すとすれば、それは胡蝶の身請けが叶ったその時である。


「胡蝶、参りました」


 庭に沿った優美な一室で、鬼城は濡れ縁に腰を据えて待機している。

 そこへ、襖をあけて胡蝶太夫がやってきた。


 慇懃に頭を下げる胡蝶が顔を上げると、その顔は、やはり、見慣れていても美しい。


 陶器のように白く滑らかな肌に、切れ長の目尻にさされた丹が映える。潤沢を孕んだ黒髪をまとめる簪の数々は、どれも豪奢絢爛。血の気のある豊かな唇は、いつもながら強烈な色気を放っていた。


 隣では、あと一、二年もすれば水揚げになる振袖新造が控え、襖の奥から太夫の仕事を見守っている。


「ようこそ、いらっしゃいました。京之介さま」


 胡蝶は花開くように、僅かに微笑んだ。

 太夫ほどの遊女ともなれば、大口を開けて笑うことは、下品として禁じられている。胡蝶の微笑みは控えめだ。


「今日はなんとも澄み渡った秋晴れの空。きっと今宵の望月も、艶やかだったことでしょうに」


 胡蝶は寂しげに眉を下げた困り顔で、小首をかしげた。


「いつもなら宵の刻にいらっしゃる貴方が、珍しいこと。何か、訳でも?」


 胡蝶は訊き出すのが上手い。

 しなだれかかるような弱弱しい声色に、滑らかに擦り寄る体勢。一流の遊女ともなれば、こうした色香で、男に全てを暴露させる術を叩き込まれるのであろう。


 胡蝶とは十年以上もの付き合いがあり、そこらの馴染みの客よりも親しいつもりはある。しかしやはり、こうして “仕事の相手”として接せられると、どことなく、心寂しくなるのだった。


(阿呆じゃなかろうか)


 寂しさを感じた己を、鬼城はたしなめる。


 鬼城とて、謀略に長けた隠密の術を継ぐ、御庭番である。感情の起伏に呑まれては務まる仕事ではない。


 仕事ではない私情の訳があって、遊幻町に足を運んだものの、鬼城はここに来てなお己を律した。胡蝶も、もう水揚げが済んだ立派な遊女なのだ。いかに馴染んでいようとも、客は客なのだ。


「土産がある」


 衣擦れの音とともに、隣にやってきた胡蝶の傍へ、鬼城は懐から取り出したものを差し出す。


 半透明の包み紙にくるまれたそれは、金平糖だった。


「まあ、金平糖」


 胡蝶は口元を隠し、目を瞠る。

 饅頭や餅などは、八つ時の間食として代表的であるが、甘味の部類で言えば、金平糖は餅などに比べて値が張る。遊女にしてみれば嬉しい差し入れだった。


「ありがとうございます。禿の娘たちに渡せば、きっと喜びましょう」


「胡蝶が食べてくれてからのほうが、俺は嬉しいんだが」


 ささやかな喜びを見せた胡蝶に、鬼城は言ってやる。ひと月前に見た時よりも、いささか、胡蝶は痩せているように見えた。疲労からか、心労からか、そのさまは鬼城の胸に不安の墨を落とした。


 無理もない。


 今より遡って、十数年。


 今日のような快晴とは違い、轟々と泣き叫ぶような大雨が降ったあの日。それは奇しくも秋めく月の半ば頃……鬼城が過ごすこの瞬間と、同じ時期のこと。


 まだ元服を済ませたばかりの鬼城の家より、火柱が立ってからほどなくして、この遊郭の太夫が、命を失った。名を傾城・らんという。胡蝶を育て上げた、姐遊女であった。


 気が触れたかつての御庭番・道法源右衛門が、鬼城の両親を殺したのちに、蘭の命を奪った。


 少なくとも、最期に蘭の姿を見た者が、そう語っている。


 醜い、蟆のような顔の男が、蘭に詰め寄っていた。鬼城が聞き取れた話も、それが精いっぱいであった。


 蘭は、首筋に刃を押し当てられ、息絶えていたという。

 その日は、悲鳴も聞こえぬほどの豪雨。


 男女の喧騒な言い争いも、女の悲鳴も、雨が掻き消した。廓の中でいかなる惨劇が繰り広げられたかは定かではないにしろ、蟆の如き醜悪な顔の男といえば、鬼城の知る限りは、道法しか思い当たる先がない。


 傾城に心を酔わせる男など数多いるであろうが、とりわけ、道法の蘭への執心ぶりは、逸脱していたという。


 ない話とは、言えぬ。


 叶うはずのない恋心を抱えた者が、想う者を道連れにし、自害の道を選ぶ。男から女であれ、女から男であれ、そのような話はありふれている。道法が、その一人であっただけにすぎない。


 蘭の死は、


“ 突然の身請け ”


 として隠蔽されたが、傍で仕え、習っていた禿の胡蝶まで、騙し通せるはずはない。胡蝶が三日三晩、その美貌が枯れ果てるまで嘆き続けていたことは、鬼城は十年以上もの歳月が流れてなお、忘れていない。


 一人の男の身勝手が、自身の両親だけにとどまらず、想った女が心から慕う者まで奪った。


 この世の土壌に浸みこんだ歴史をさかのぼれば、尋常ならざるほど残忍な人物は溢れるほどに挙げられる。悪人は、どこにだっているのだった。


 しかし、坊主が憎ければ、袈裟まで憎いという。

 少なくとも鬼城の中では、道法以上の悪人など、存在しないのだ。道法が憎い。憎いゆえ、いかに厳しい鍛錬にも耐え抜いた。道法を殺せるのなら、四肢の一部をくれてやることも安い。


「胡蝶」


 鬼城はおもむろに、肩の力を抜いた。

 真摯な眼差しで、胡蝶の眼と対峙する。珠玉を散りばめたように艶めくその眼の奥が、揺れるのが見えた。


 心から慕った姐の命が、無残に散らされた日のことを、胡蝶が忘れてなどいないことは、承知の上である。


「そろそろ、蘭の命日だな」


 などと、不用意なことは言わない。

 鬼城からしても、両親の命日など、考えただけでも腹の底が沸々と音を立て、沸く。


 誰に看取られて死んだわけでもない。

 

 殺害なのだ。


 一方的に奪われた命が、残された者に悼まれることで、無念が晴れるなどありえない。

 

 その命の無念が晴れるとすればただひとつ。元凶を討ち滅ぼし、仇を討つことだけなのだ。


 ゆえに鬼城は、胡蝶に対して、


「蘭を悼んでやれ」


 とは、言わない。

 

 そのようなことを聞かされれば、胡蝶の胸の奥に、油汚れのごとくこびりついた悪夢が、堰を切って蘇ることとなるだろう。胡蝶の口から何を語られたわけでもないが、鬼城には、分かっている。自分がそうだったからに他ならない。


 城主に重く用いられていた御庭番が一夜にして討たれたとあって、民も黙ってはいない。悪意のない純粋な興味本位で、幾度となく、見知らぬ者から、思い出したくもない話を掘り起こされた。


 鬼城があの晩の事を忘れようとしても、世間が、それをさせなかったのだ。ほとぼりが冷めぬうちは、日に何度も、腸を捻じ切られんばかりの苦痛を感じたことがある。


 両親と、蘭の無念を思えば、あの日の苦痛も軽い。道法さえ消せば、この全ての因果が終わるのだ。


「…… “鴉”のことについて、ここに情報は入っていないか」


 固唾を飲み、深い呼吸を繰り返し、ようやっと紡ぎ出した言葉が、それだ。

 胡蝶の僅かに開いた唇が、閉じられなくなっている。


 鬼城の言葉に呆然としていた胡蝶は、しばし、その顔から微笑みを消した。


「――」


 胡蝶の瞠若が、やがて愁いを帯びた微笑に変わる。


「……今宵の子の刻、北の口、東の口より攻め入り、国主の御首を頂戴する」


 胡蝶の、血色のよい唇から、おもむろにその一言が零れ落ちた。


「道法のしもべが、口を滑らせたのでしょう。仲見世より、その情報があがりました」


「そうか」


 鬼城の語調は、想った女を前にしても、ややそっけない。


 所詮、これは仕事のやり取りである。鬼城は胡蝶の体こそ買わぬが、胡蝶を買う口実として、その時間と、遊郭にて仕入れられた情報を買っているのだ。


 鬼城も “鴉”の下部のものとして潜り込み、名と出自を偽って、その動きを探っている身である。


 しかし、連中は結束力こそ薄いものの、懐疑心は異様なまでに強かった。外からやってきた者であり、かつ、腕の立つ謎の男に、鴉の連中は容易く心を許さない。


 狛犬城を奇襲する前日まで、鬼城に当日の動きを伝えられることはなかった。


 しかし、道法の下部というものは、どうやら女の快楽を前に阿呆になったらしい。敵の攻め口が把握できたことは、狛犬城側の家臣や御庭番にとっては、大きな盾になる。


「十分な情報だ。助かった」


 淡白な言葉で礼を言う。が、淡白な言葉に相反し、胸の内では、胡蝶への慕情が息巻き、募っている。


 鬼城が手を出せず、その時間と情報を買いに来るその合間に、胡蝶は、別の男の相手をしている。それが遊女の仕事なのだから、選り好みをしすぎていては本末転倒だが、胡蝶を想う鬼城にしてみれば、決して良い心地ではいられぬ。


 いつか、お前を買う。


 その不確定な未来を口にできぬまま、鬼城は口をつぐむ。


「今宵、蘭の仇を、道法を討つ」


 確実にわかっていることだけを、伝えた。


 姐も同然の遊女を殺した、仇の男を、この手で打ち滅ぼす。それで両親と蘭の無念、ひいては、胡蝶の無念と不安と拭い去ることができる。そのためなら、鬼城は己の手がどのように汚れたとて、構いもしない。


 胡蝶の微笑みは消えることはなかったが、どことなく、遠慮がちだった。


「姐さんの、仇」


 反復して繰り返した胡蝶は、反論することも、賛同することもない。ただ、鬼城のしなやかな手に、自分の滑らかな手を重ね、そばに寄り添った。


「これで姐さんの無念が晴れるならば、嬉しいです。けれど」


「けれど」


「京之介さまが、仇討ちゆえに鬼となってしまわぬことを」


 胡蝶はその時、視線を落とした。

 鬼城の手を握り、その掌を虚空に向ける。肉刺ができた個所、それが潰れて皮膚が熱くなった箇所、それらを労わるように見つめながら、ようやく、鬼城の顔に視線を戻す。


「この胡蝶、心よりお祈り申し上げています」


 先ほどと変わらぬ、愁いを帯びた色気のある顔だったが、その白い顔にはわずかな、紅潮が見られる。目元は緩み、凛とした眉がわずかに下がっている。優しい面差しであった。


 仇討ちばかりに取り憑かれるな。


 胡蝶はそう伝えたいのであろう。


(なぜだ)


 鬼城は自分の手に触れる胡蝶の手を受け入れてはいたものの、心底からは解せなかった。たかが一介の客に、家族も同然の遊女を殺された。


 そしてその姐の命日が近づくたびに道法の存在を思い出し、痩せるほどの心労を患ったというのに、なぜ、鬼城が仇討ちの鬼となることを望まないのか。


 胡蝶の思いが、鬼城にはわからぬ。


 仇を討つことを喜ばぬ、その思考は、不可解だ。胸の内に黒煙が立ち込めたまま、鬼城は、胡蝶の顔を見られないでいる。

 

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