第8話 あざみ


 *


 野菜を売りに出ても稼ぎが悪いのは、萬國にとっては常なること。

 のしのしと地を歩く巨漢を、避けて通らぬ者はいない。


 これで温厚な面立ちであれば違ったろうが、萬國は容姿に恵まれていない。いつまでたっても軽くならない籠を下ろし、町河川の瀬に腰を下ろした。


 渡月橋仕様の橋がかかった河原には、晴れやかな空の下で、客を乗せた船乗りが仕事に励んでいる。戌ノ国と隣国の境には、二つの国を断つように深く広大な河川が流れている。その河川がいくつもの川に分岐しているため、周辺の国は水に困ることはないという。


 狛犬城下の町に流れるこの川は、下流に辿っていけば遊郭にも着く近道にもなる。


(遊郭、か)


 萬國は、川面の真上に足を垂らし、物思いにふける。

 鴉の頭である道法は、時折剣呑な面差しで、遊郭の灯りが燈るほうを、睨みつけていることがある。あの男は遊郭に思い入れか、恨みでもあるらしい。


 鴉のことを思い出せば、おのずと、ため息が出る。


 一度、鴉の連中に酷い火傷を負わされた折、必死の思いで川に飛び込んだことを思い返す。


 あまりの激痛に、川の流れに逆らうことも忘れ、ただ流木に掴まって流されていったのだった。


(そういえば)


 萬國はふと、追憶の果てに、己の記憶に違和を感じる。

 萬國が川に流されたあの日、あのまま探されていれば、いずれ国境の境を流れる大河まで送られていたであろう。しかし、それよりも先に、鴉衆の一人が、萬國を川から引き揚げてくれたのだった。


 男の名は、佐吉さきちという。

 ほかの鴉衆と同様に、鴉の面で顔を隠しているため、その素顔までは知らない。しかし、思い返せば、この男はほかの鴉衆とは違い、あまり殺しの場に姿を現さないのだった。


 動くのは諜報、隠密として働くときのみ。それが終われば、あとは遠巻きに、その後のことを眺めている。萬國が鴉衆に虐げられていても、助けはしないが、暴行に加わることもない。


 どこの世にも、傍観者はいる。

 佐吉がその、傍観者だったに過ぎない。


 そう考えた萬國であったが、なぜあの日だけ、萬國を救い出してくれたのかが、分からぬ。鴉衆に見られていれば、佐吉もとばっちりを受けるに違いないであろうに。


『哀れな男だ』


 愁いを帯びたその一言を残し、佐吉はその日、萬國を引き上げて、その場を去っていった。


 その声色は、佐吉を傍観者と思うにはあまりに悲しげで、今とて、萬國は忘れもしない。


(佐吉といえば)


 萬國は佐吉から、今晩の城主暗殺を連想する。


 鴉衆は、萬國が特攻したその後に、城へ忍び込むこととなっているが、佐吉だけは、監視役として萬國とともに城へ向かうこととなっている。


 萬國がしくじれば、おそらく、その始末をし、道法へと報告をするのが佐吉であろう。


 図体が大きく、ほかの鴉衆のように身が軽いわけでもない萬國が、城に忍びこむのは難しい。誰がどう考えたって、萬國が捨て身の囮を任されているのは目に見えていた。


 この任を請け負おうと、放棄しようと、萬國が死ぬのは避けられぬことだった。

 萬國の念頭にあるのは、隅から隅まで、衣のことである。


 任を放棄すれば確実に、萬國への見せしめに衣が殺される。しかし、任を受け、城に飛び込んで殉死すれば、もしかすると、目せしめの必要がなくなった鴉は、衣を狙わぬかもしれない。


 萬國には、そんなわずかな希望がある。それでもやはり、独りでは働けぬような病弱な衣を、この世に残して死なねばならぬのが、心残りで仕方がない。


 萬國は何度も唾をのみ、瞬きをした。


 鴉での働きにて稼いだ銭があるとしても、その銭で、いつまで衣が暮らせるかはわからない。しかし萬國が逃げ出せば、たちまち鴉の連中に掴まるであろう。鴉が衣をどうするかなど、夫である萬國は考えたくもなかった。


「衣を、逃がす他ないのか」


 心中の葛藤が、喉の奥から言葉を紡いで漏れた。


 その直後、


「何を逃がすの?」


 頭上から、声が降り注ぐ。


 とっさに顔を上げると、目と鼻の先で、晴天の陽光を受けた萌黄の髪が、朗らかに揺れている。


 眼前にいたのは、少年だった。

 健康的な肌色に、ふっくらとした頬。よく遊び、よく笑う、充実した生活を送った子どもというのは、このような顔を言うのだろう。


 大きな眼に、この世の夢を湛えたような少年は、にこりと快活に笑った。


「お兄さん、いつもこのあたりで野菜を売ってるよね。いつも見かけるんだ」


「あ、ああ……」


 萬國は狼狽しながらも、地に手をついて立ち上がる。

 立ち上がってすぐに、後悔した。


 少年は巨体の萬國に比べて、頭ふたつ分も違う、華奢な小柄である。これまでも、人前に立って出た結果、恐怖を植え付けたことは一度や二度ではない。この少年も、萬國の姿を見て逃げ出すと思われた。

 

 しかし、少年は怖気づいて逃げ出すどころが、額に平手を添えて萬國の顔を眺めた。


「遠くからしか見てこなかったけど、やっぱり大きいや」


 ふふっ。

 少年は優しく目を細めると、


「ねえ、そこからどんな景色が見える?」


 と、問いかけた。


「僕は背が低いから、背が高い人が見てる景色に、憧れてたんだ。背が高いと、やっぱりほかの人も小さく見えるの?」


「いいや……」


 萬國は少年の問いかけに、頭を二つ、横に振った。


「俺の顔が、いかついからかもしれないのだが、あまり背が高すぎると」


「うん?」


「その、人に避けられる」


「ははっ」


 少年は高らかに笑声を上げた。


「僕とよく遊ぶ子どもたちも、言ってたよ。おっきな怖い顔の人がいるって」


「怖い顔」


 悪意のない澄んだ声が、萬國の心の臓に突き刺さる。無垢な言葉というものは、時折、鋭利である。


 図体に反して繊細な萬國は、がくりと首を垂れる。


 しかし、


「でもね、お兄さん」


 少年が萬國を慰めるように、下からその顔を覗き込む。


「その子たちは、肩車をしてもらうのが大好きなんだ。お兄さんくらい背の高い人にしてもらったら、きっと楽しいよ」


「しかし、俺では怖がるのではないか?」


 己の容貌を気に掛ける萬國に、少年は、


「まさか!」


 と、手を打った。


「お兄さん、笑ったらきっと素敵な人だと思うな」


 少年は、にひひっ、と歯を剥きだすと、女のように両手を背後に隠した。

 そして、再び前に出したその手から、一朱銀の一枚を出して見せる。


「僕の仕事場にね、料理の上手い人がいるんだ。その人に料理してもらいたいんだけど――その籠いっぱいの野菜、これ一枚で足りる?」



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