第7話 月夜

 *


 二の丸の濡れ縁に腰を掛け、鬼城京之介は庭園の池に浮かぶ月を睨んでいる。


 手元に置いたのは、鴉を象った異形の面が置かれていた。漆を塗られた表面が、行燈と月の光を受けて紅白に染まる。


 池に蛙が飛び込むと、池に波が立つ。波が立ち、池に浮かんでいた小望月が歪に崩れた。


「明日は望月、か」


 鬼城の背後で、茶室に坐した犬江が呟く。


「月の出る夜は明るい。まして望月が出ればなおのこと。なにゆえに、そのように不利な状況を選ぶか」


 犬江は悲しげとも、呆れ果てたともつかぬ声色である。

 普段は茶など一人では飲まぬ犬江は、茶室を茶室としては使わない。いつもは茶坊主の一人も出入りしないこの部屋は、犬江城主の秘密の物置と化している。


 茶道具入れとして使うはずの押し入れには、書物が小山のように積まれ、寂しげに埃を被っている。その書物の山の中から一つ、古びた襤褸の一冊を手に取る。使い古されて柔らかくなったそれは、手記である。


 “ 御庭番帖 ” と、あった。


 いまや御庭番というものは、どこの国でも、地位を持つ家臣の一角だ。他の政務や武に従事する家臣と同じように、犬江家では現城主以前の代より、長らく、犬江家に仕えた庭番が記録してある。


 書物の最後尾に記されているのは、今の城主である犬江直隆と、その息子の代で仕えている鬼城京之介、そして福間小三郎の二名であった。その二名の前には、先代城主、すなわち、犬江直隆の父と、若かりし現城主の代に仕えた、御庭番の名が記されている。


 鬼城京一郎景雪。

 道法源右衛門。


 この二名の名の内、道法の名のみ、縦一文字で遮られている。


「……道法が父を殺した日もまた、望月の夜。次は殿の御命を、望月の夜に頂戴するつもりでしょう」


 平静な面差しで、淡々と告げる京之介であるが、その実、拳を握り締めた手は殺意に震えている。


 道法。


 もとは京之介の父・京一郎とともに、狛犬城に仕えていた御庭番であった。


 百姓の生まれという身分でありながら身のこなしに優れ、剣の上達も早かったという。木刀ひとつで獣を退け、戌ノ国の農村でもたちまち評判となった。やがてそれを耳にした先代の城主が、犬江直隆の御庭番として、道法を仕官させた。


 それと同じ時期に、御庭番として犬江に仕えたのが、鬼城京一郎だった。


 しかし、志の高く穏やかな気性の京一郎とは違い、道法は短気で欲深な男である。


 京一郎の器とは、天と地ほどの差がある。犬江もそれを知っていて、道法よりも京一郎を重く用いた。道法から見ても、京一郎のほうが大切にされているのは、気に入らなかったことであろう。


 鬼城京之介が元服を済ませて間もない満月の夜に、血迷った道法が狛犬城を抜け出し、鬼城の屋敷に火を放った。それだけでは飽き足らず、道法は家にいた京一郎とその妻、すなわち、鬼城の母をも殺している。


 鬼城にしてみれば、何度引き裂いても足りぬほどの恨みが、道法にはあるのだった。


(忘れるかよ)


 鬼城は忌まわしい月を睨み上げる。

 舞い上がる火花に、赤々と燃え盛り吠える焔の声。そのひとつひとつを鬼城は片時とも、忘れたことはない。


 その後、道法は狛犬城から逃げ出し、今では自身を筆頭とした暗殺衆・鴉を結成し、人殺し稼業を営んでいるという。同じ御庭番の片割れを殺してなお、道法の恨みは収まらぬのだろう。次に狙っているのは、こともあろうに犬江城主の首だという。


 これは風の噂でも、勘でもない。

 この幾日、鴉に潜入してその動向を探っていた、鬼城自身が見聞きしていたことだ。


『あの男、犬江直隆に目にものを見せてやる』


 道法が卑劣に唇を吊り上げ、そう嗤ったのを、鬼城は覚えている。

 自分が暗殺を企てるよりも前から、犬江城主が御庭番を放って潜入させていたことなど、道法は塵芥ほども予想していないに違いない。


(今に、見ていろ)


 鬼城の恨みは深い。

 仇が進んで人の陣地に踏み込んでくるのであれば、これほどに良い機はない。鬼城は道法がこの城に踏み入った即座、斬り伏せてやる気概だった。


「……惜しい男であった」


 不意に、犬江がため息を漏らした。

 亡き京一郎に向けての言葉か。


 あるいはもう一人の、道法源右衛門か。

 どちらにせよ、犬江の言葉はひどく落ち込んでいる。


「一人は育ち良く、人柄も才能も申し分ない。もう一人は、前者に同じく武勇に優れ、努力を惜しまぬ男。互いが互いに意識し、共に成長をしてくれればと望んだが……」


 犬江は書物を優しく閉じると、鬼城の隣に腰を下ろす。


「嫉妬というものは、恐ろしいものよ。わしはいまだに、何があの男を、ああまで残忍にしたのかが分からぬ」


 犬江の神妙な面差しは、鴉の動向を気にしている ――というよりも、これまで二人の御庭番を比較し、与えるものに差をつけたことを悔やんでいるようである。


「金でも地位でも女でも、火種さえあれば、人はどこまでも鬼になれる生き物でございます。……その火種が、恨みであればなおのこと」


 ただ復讐に燃える鬼城は、鼻を鳴らす。


 どのような経緯があったとしても、両親を殺された鬼城にしてみれば、道法の事情など知ったことではない。どれほどに凄惨な過去があろうと、容赦なく首を落とすつもりでいた。


 臥薪嘗胆とは、よく言ったもの。


 孤独の身となった日から一度だって、


(復讐を諦めたことはない)


 鬼城は立ち上がるや、手元に置いていた鴉の面を手に取る。


 鴉への潜入は決まって夜更けである。


「それでは、私は鴉の陣へ行って参ります。すぐに、福間が殿のお傍につくでしょう」


 鬼城は殺気の漲る眼差しを、鴉の面で覆い隠す。この薄汚い面を被るのも、明日の夜で最期となろう。



 *


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る