第6話 妻よ
*
萬國の百姓としての仕事は、日が沈むより少し前の、酉の刻である。日は高くないが、夕日というにはまだ遠い。夕暮れよりも早いその時刻に、萬國は仕事を切り上げて帰ってくる。日が沈み始めれば、町人の多くが家に帰り始めるためだ。
百姓のみならず振り売りの者も、早朝に長屋を回り、
「おひとつ如何かな」
と、朝飯を作り始めたカカアや独身男に品を売りつけてくる。
ゆえに朝は稼ぎ時であるが、風貌が剣呑な萬國は、笑顔と会話の達者な棒手振りよりもうんと稼ぎが少ないのだった。
今日も僅かばかり稼いだ銭を握りしめ、重い足取りで家の戸を潜る。
衣といる時間は、安らかだ。
苦悩も痛みも忘れ、好いた女と過ごす間というのは、萬國にとって何にも代えがたい。衣との生活があるからこそ、萬國は、苛烈を極める鴉衆からの所業にも耐えられる。
「ただいま」
引き戸を締めながらそう声をかけたが、返事はない。
「衣?」
呼びかけるが、これにも返答はない。外で野良猫が一声、鳴いたばかりだった。
土間を進んで居間を見ると、衣の姿はどこにもない。昼寝でもしているのか。草鞋を脱いで、閉め切られた寝間の障子戸を開けるが、そこにも衣はいない。
(どこへ)
衣の不在を知った萬國は、一拍置いて、青ざめた。
『妻も家も、無事ではないと思え』
道法の言葉が、脳裏をよぎる。
しかし、狛犬城の城主暗殺は、明日の晩である。仕事をしくじってもいない萬國に、鴉の衆が制裁を下すには、あまりに早い。
萬國の理性が、己にそう言い聞かせた。
しかし、
(しかし奴らなら、やりかねない」
と、衣の身を案じている心もあった。
「……」
鴉のねぐらである、山奥の小屋に行ってみるべきか。
萬國は思案した。衣が何かの用事で外に出ている可能性も、十分にある。しかし、万が一のことであれば、町中を探し回った後では遅すぎる。
悩んだ末に、萬國は山小屋へ出かけるべく、いまいちど土間へと降りた。
そのとき、
「あら、万蔵さん」
萬國が草鞋を履くよりも先に、衣が戸を開けて帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ああ……」
あまりに唐突な衣の帰宅に、萬國は暫時、呆気にとられた。そして、衣が外に出かけていただけと知るや、安堵する。
「体の調子は、大丈夫だったのか」
「ええ、むしろ元気……。米櫃が空だったので、買いに出て参りました。ついでに、狛犬城の城下で、社へお参りに」
衣は小ぶりな麻袋を手に抱え、竈の隣に置かれた米櫃の前で腰を折る。
米櫃に、麻袋の中の米を流し込む衣の背は、やけに小さい。元気というものの、萬國には、衣が疲れ果てているように見えた。
思えばここの所、衣の薬を買っていない。定期的に薬の量を確認しては買い足しているものの、最近では薬の減りが妙に遅いのだ。
「衣」
薬はちゃんと、飲んでいるのか。
そう萬國が問いかけるよりも早く、衣が振り向きざま、
「その社には、福の神様がおりました」
と、言った。
「福の神?」
反復して、萬國は納得する。
そういえばここ最近、衣は狛犬城の社に散歩に出かけている。散歩から帰ってきたときは決まって、福の神の話をする。聞くに、福の神というのは、社に住み着き、遊びに来る子どもらと蹴鞠に興じている少年であるらしい。
「子どもたちも社で元気に遊んで、その隅では宮司様とお年寄りの方が世間話をして。お武家様の御膝元だというのに、人々の憩いの場のような場所でございます」
衣は楽しげに、柔らかく微笑んだ。
城とはすなわち、戦における要塞であり、政務の場であり、何より、国主の威厳の象徴である。その城の敷地内で、下々の者が屯し、遊ぶなど、他国であれば咎めを受ける。
博愛主義の犬江が治める国だからこそ、できることであろう。衣も萬國も他国の生まれ故に、この国の寛容さには救われている。
聞くに、国主の犬江が大らかな気性であるという。本来、他国への移動の際には関所を通らねば即刻斬り捨てとなるが、この国一帯の国境には関所が存在しない。
他国では襤褸の破れ屋であろうと、元の持ち主や国が認めねば住むことは許されぬ。しかし、この戌ノ国では、家賃や土地代さえ払っていれば、大家の紹介もいらぬという。
とにかく、民に優しい国だった。
そのような国の国主を、明日の晩に、萬國が殺すのだ。
「……」
萬國の心境が複雑なのは、言うまでもない。
自らも恩恵に与ったこの国を、これほどに豊かに作り上げたのは、犬江城主である。恩を仇で返すなど、虫一匹と殺せぬ萬國には無論、考えられぬ。
が、城主を討ち取らねば、殺されるのは萬國だけではない。萬國がしり込みをすれば、鴉の衆は真っ先に、衣を殺しに来るであろう。であれば、城主の命を尊んでいる場合ではない。
たとえ城主の死によって、大勢の民が悲しもうと、萬國にしてみれば二の次なのだ。妻との生活よりも尊べるものは、萬國の中には存在しない。たとえ己が死ぬこととなろうとも、衣を道連れにしてはならぬ。
「……いつか」
萬國は、胸の内に芽吹くわずかな希望を湛えて、衣のそばに膝を突く。
「いつか、二人で社に行こう。お前が楽しそうに語ってくれるその様子を、俺も見てみたい」
言うと、衣が弦で弾いたように、はっと萬國を直視した。
そして次第に、その驚嘆の表情は喜びに代わり、衣の白い頬にほのかな赤が広がった。
「行きましょう。私も、万蔵さんと一緒に、参拝しとうございました」
*
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